ユーミン、デビュー50年:J-POPの源流をつくった女王の半世紀 – nippon.com

ユーミンが日本の音楽シーンでいかに傑出した存在か、以下のデータを列挙してみるとよく分かる。これだけの歴史的なセールス記録を持ち、デビューから今に至るまでの半世紀、常に第一線で活躍しているのはユーミンだけ。唯一無二の存在と言える。
1954年、東京都八王子市に生まれたユーミンは、71年、17歳の時にソングライターとして世に出る(加橋かつみ「愛は突然に…」を作曲)。しかし、多摩美術大学に入学した翌72年7月5日、本人は望んでいなかったが、恩師・村井邦彦(アルファレコード創設者)の説得もあって、シングル「返事はいらない」で歌手デビュー。シンガー・ソングライター荒井由実が誕生した。
73年にはデビューアルバム「ひこうき雲」を発表。この年のヒットチャートの上位をちあきなおみの「喝采」といった歌謡曲や演歌、かぐや姫の「神田川」などのフォークソングが占める中でのことだった。
6歳から始めたピアノを通して親しんできたクラシックと、プロコル・ハルムやフランソワーズ・アルディなどの洋楽から影響を受けたユーミンの楽曲は、都会的で洗練され、乾いた明るさがあった。歌謡曲やフォークソングが醸し出す男女の昏い情念など陰にこもった世界とは対極にあるものだった。バックを担ったキャラメル・ママ(後にティン・パン・アレーにバンド名を変更)=細野晴臣(ベース)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラムス)、松任谷正隆(キーボード)の洋楽をベースにした演奏と相まって斬新な音楽となった。「ひこうき雲」はアルバムチャートで最高9位を記録するなど、最初から彼女の音楽は多くの人々の心を捉えた。
ユーミンの出現が画期的だったのは、欧米のポップス風のコード進行とアレンジに、瑞々(みずみず)しい感性の美しい詞をのせたこと。その詞には、ルージュ、フリーウエイ、ミルキーウェイ、コバルト、ステイション、ブリザード……といった英単語を巧みに散りばめ、現代的でおしゃれなイメージを醸し出すのに一役買った。また、詞の内容は男の身勝手に振り回されたり、男に尽くす女ではなく、自立した女のクールな目線になっていた。こうして作り上げられたユーミン・ワールドは当時、「ニューミュージック」と呼ばれていたが、それは今、世界中で愛聴されている「シティ・ポップ」の源流となり、J-POPの隆盛にも大きく寄与している。
1976年11月に結婚し、荒井由実から松任谷由実になって半年後のユーミン(共同)
1976年11月に結婚し、荒井由実から松任谷由実になって約半年後のユーミン(共同)
ユーミンの音楽を熱烈に支持したのは、流行に敏感な若い女性たちだった。彼女たちがアルバムをメガヒットさせ、コンサートツアーを常に満員にし、ユーミンを不動のポップミュージックの女王へと押し上げた。
初のチャート1位に輝いた1976年の4枚目のアルバム「14番目の月」からは、松任谷正隆が全曲のアレンジ、プロデュースを担うようになった。同年にふたりは結婚し、荒井由実から松任谷由実に改名、今に至るまで作詞・作曲は全てユーミン、編曲・プロデュースは全て正隆という体制で彼女の曲は作られてきた。竹内まりや&山下達郎夫妻も同じ制作体制でヒットを連発してきたが、「一番身近にいて音楽的にも信頼できる他者」に編曲という曲の成否のカギを握る作業を委ねられたことは大きい。
ユーミン作品について松任谷正隆は、曲のアレンジについては彼がほぼ全権を握っていると明かしている。作曲段階でユーミンがつけたコードを、正隆は一度全て白紙に戻し、その曲に最もふさわしいと考えられるコードに差し替えることすらあるという。この逸話を知った時は心底驚いたが、正隆のプロデュース力抜きには、ユーミンの長期間にわたる記録的なアルバム・セールスは語れない。
全日本スキー連盟(SAJ)の表彰式で、SNOW文化功労賞に選ばれた歌手の松任谷由実(左)と夫で音楽プロデューサーの松任谷正隆(2017年05月18日、東京都港区)時事
全日本スキー連盟(SAJ)の表彰式で、SNOW文化功労賞に選ばれた松任谷由実(左)と夫で音楽プロデューサーの松任谷正隆(2017年05月18日、東京都港区)時事
80年代の初頭から、ユーミンの快進撃が加速した。松任谷由実となってからの6作目、1980年の通算10枚目のアルバム「SURF&SNOW」は特に重要な作品だ。それまでも何曲かで用いていた夏の海、サーフィン、冬のゲレンデ、スキーというリゾートの光景や、クリスマスといった若い男女のイベントにおける心象風景をフィーチャーした。87年には、同アルバムの収録曲「サーフ天国、スキー天国」が大ヒット映画「私をスキーに連れてって」の主題歌に、「恋人がサンタクロース」が挿入曲に選ばれ、ユーミンの歌声が巷(ちまた)にあふれた。
78年からユーミンは海に面したマリンレジャー施設の葉山マリーナ(神奈川県葉山町)で、81年からはスキー場にある苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)でと、リゾートでのライブを定期的に開催。リゾートに仲間と集いアウトドアで遊ぶ、アップグレードした新しいライフスタイルをも提案してみせた。
「常に時代の一歩先を行く」感覚が鋭敏なユーミンは、この時すでにバブルの到来を予感していた。「一億総中流」となったこの国の社会的変化を感じ取り、時代の空気を誰よりも音楽に反映させたのが彼女だった。私小説風だった初期のスタイルから歩みを進めて、トレンドセッターとしての役割を果たしていく。遊びにも恋愛にも、積極的で行動的な新しい時代の女性像と生き方を歌い、80〜90年代は「若者のカリスマ」「恋愛の教祖」となっていく。
この時代、81年の12枚目のアルバム「昨晩お会いしましょう」から、97年の28枚目のアルバム「Cowgirl Dreamin’」まで、17作連続チャート1位を記録した実に16年もの間、彼女のニュー・アルバム発売は国民的なイベントとなり、その日は東京の街中が華やいでいたのを覚えている。一人のシンガーソングライターの存在が、音楽の範疇(はんちゅう)を完全に超えていた。そんなアーティストは後にも先にもユーミンしかいない。
「私のアルバム1位記録が止まる時、それは日本の社会が変わった時」という本人の予言どおり、1997年末から98年にかけて、銀行や証券会社の破綻が相次ぎ、戦後の右肩上がりの経済的繁栄が終焉(しゅうえん)を告げたのと同時に、ユーミンのニュー・アルバムはヒット・チャートで2位止まりとなった。98年末には宇多田ヒカルがデビュー。音楽シーンが様変わりする中、ロシアの国立サーカス団などと組み、新趣向のエンターテインメントショー「シャングリラ」を99年に始めるなど、ユーミンは新たな道を模索し始める。
2010年代に入ると、時代は再びユーミンを求めるようになる。2011年、未曾有の大災害となった東日本大震災が発生。すると94年にリリースした「春よ、来い」が震災復興を象徴する曲としてあらためて脚光を浴び、ユーミンの歌声が再び日本中に溢れた。翌12年には初のオールタイム・ベスト・アルバム「日本の恋と、ユーミンと。」をリリース。チャート1位を記録するなど大きな話題を呼び、往年の活躍を知らない、若い世代にもユーミンは再発見された。
また、13年には、宮崎駿監督の5年ぶりの長編映画「風立ちぬ」の主題歌に荒井由実時代の「ひこうき雲」が選ばれ、日本中の老若男女はもちろん、海外にも広く浸透することになった。
スキー開幕のイベントで歌を披露する松任谷由実(2019年11月05日、東京都渋谷区)時事
スキー開幕のイベントで歌を披露する松任谷由実(2019年11月05日、東京都渋谷区)時事
そして20年、コロナ禍で苦しむ人々を癒したのが、74年発表の「やさしさに包まれたなら」だった。この年の大みそか、NHKの「紅白歌合戦」で同曲が特別な意味を持って歌われたことは記憶に新しい。
「歌だけが”詠み人知らず”として残っていくことが理想」
ユーミンは近年、唯一の願望をそう語る。
「歌い手やつくったのが誰かは忘れられてもいい。曲が聴かれ、歌い継がれていってくれること、それが願い」
自身で歌った曲だけでなく、女優グレタ・ガルボをもじった呉田軽穂(くれた・かるほ)のペンネームで作曲した、松田聖子「赤いスイートピー」や薬師丸ひろ子「Woman “Wの悲劇”より」といった提供曲も含めて、スタンダードナンバーとなっている曲は少なくない。ユーミンの曲は、さまざまな歌い手によるカバーも数百とあり、近年では今井美樹やJUJUのアルバムのように、丸ごとユーミン・カバー集という作品も増えている。教科書にも載っているユーミンの曲の数々は、今この瞬間も、老若男女を問わず誰かに歌われている。今から数百年後も、「やさしさに包まれたなら」がどこかの国の誰かに聴かれ、歌われ続けていることを想像するのは容易なことだ。
バナー写真:ユーミンのデビューアルバム「ひこうき雲」のジャケット ©ユニバーサル ミュージック

音楽 J-POP ユーミン 松任谷由実 ニューミュージック シティポップ

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