シティ・ポップの源流、70年代後半の名曲を本城和治と語る – マイナビニュース

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日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年8月は元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクターである本城和治の50曲特集。第4週は、彼が手掛けた名曲について振り返る。
田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのはザ・スパイダース「あの時君は若かった」。1968年3月発売。今月の毎テーマはこの曲です。若かったあの頃を思い出しながらの1ヶ月であります。
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あの時君は若かった / ザ・スパイダース
今月2021年8月の特集は本城和治の50曲。本城さん、元フィリップス・レコード、プロデューサー、ディレクター、その後日本フォノグラムのプロデューサー、ディレクター、1933年生まれ、そしてこの曲「あの時君は若かった」の制作者であります。日本語のポップスの創世記です。洋楽出身ならではの良質なポップスを作り続けてこられた制作者。先週まではGS、それからカレッジフォークという、カテゴリー別に曲をご紹介してきましたが、今週は名曲編です。時代を先取りした大ヒット曲もあれば、そういう結果は残せなかったものの、聴かれ続けている曲を選んでいただきました。こんばんは。
本城和治(以下、本城):こんばんは。本城です。
田家:よろしくお願いします。今週は名曲編と括ってみました。今までが名曲じゃなかったということではないんですけど、ジャンルでなかなか分けられない曲もあるなと思って。
本城:そうですよね。
田家:GS、それから本城さんがネーミングされたカレッジフォークとかですね。ポップス、歌謡曲とかいろいろな分かれ方があるんですけど、そういう括り方について思われていたことはどんなことでしょう?
本城:私はあまりジャンルというのは気にしないというか、自分の作る音楽はある程度一貫していました。まあ、意識して歌謡曲っぽいものを作ったとか、そういうことはありますけどね。
田家:でもやっぱり、そういうのもありながら、ある種の基準はずっとおありになるんでしょうね。基準というのはどんなものなんでしょうね。
本城:あのね、ざっくばらんに言っちゃうとね、自分が買いたいレコード。自分が買いたい曲。自分の買いたいものを作るのが1番いいなと思っていたんですよ。
田家:なるほどね。自分が聴きたいものであり、自分が買いたいものであり。制作者でありながら、聴き手なんですね。良質なアーティストは良質な聴き手であるというのはありますけど、作り手、ディレクター制作陣もそうだということですね。
本城:そうですね。
田家:で、今週はそういう「良い曲ってなんだろう?」みたいなことも考えながら、お聴きいただけると思います。今日の1曲目。これは当時、全く知られてなかったのではないかと思ったりしますが、1971年5月に発売になった、加橋かつみさんの「愛は突然に・・・」という曲です。作曲はまだ高校生、17歳の荒井由実さん。作曲家としてのデビュー曲です。
愛は突然に・・・ / 加橋かつみ
田家:本城さんが選ばれた今日の1曲目、いきなり歴史的な曲であります。加橋かつみさん「愛は突然に・・・」1971年の曲です。5月に発売になりました。シングルだったんですよね?
本城:そうですね。これ、シングルカットにしたんですよね。
田家:アルバムは2枚目のアルバム『1971 花』の中に入っていた。
本城:これピアノを弾いてるのユーミンなんですよね。たぶんユーミンが弾いてもらった方が感じが出るんじゃないかと思って。そしたら、「Aじゃないと弾けない」って言うから、「いいよ、それで」って言ってキーがAになったんですね。ユーミンが弾きやすいキーに。
田家:へー! 詞は加橋かつみさんなんですけど、これはどういう経緯で?
本城:ユーミンは当時、JSとかロック関係の。
田家:追っかけだったと(笑)。
本城:追っかけみたいな。いろいろなミュージシャンとの付き合いがあってね。これはユーミンのデモテープをスピード・グルー&シンキだったかな。僕はシンキは直接知らなかったのですが、そのテープが加橋かつみ経由で渡って。加橋くんから「これおもしろいからちょっと聴いてみてよ」って聴かせてもらって、3曲ぐらい入っていたんです。どれも今まで聴いたことないような、「えーこんな作家がいるんだ」と思って。アメリカンポップスのような曲が多い中でヨーロッパ、特にイギリスの感じがする曲が書ける人って他にいないなと思って。こういう雰囲気は加橋くんに合うなと思って、その中で1曲選んで、加橋くんが日本語に詞をつけて、レコーディングしたんです。
田家:その時、高校生だというのはご存知だったんですか?
本城:もちろん知ってました。それで、スタジオに放課後来てもらって。
田家:村井邦彦さんにユーミンを紹介された。
本城:加橋くんの曲は、フランス・バークレーの原盤でやっていたんですね。バークレーの繋がりでアルファ・ミュージックが出来ましたから、アルファーの出版になった。アルファ・ミュージックのスタッフがレコーディングに来てましてユーミンにアルファの人たちを紹介して、「アルファ・ミュージックで契約しなさい」って僕が言ったの。結局、村井邦彦と契約したわけですね。作家契約。私もユーミンのデモテープを聴いて、おもしろい声で、「歌うつもりないの?」って言ったんです。そうしたら「私はそういうつもりないです。作家志望なんで」って言うから、「あ、そうなの」と。当然作家としてアルファでやっていくだろうと思ったんで、歌手になったのでびっくりしました。
田家:松任谷由実さんの歴史がここから始まりました。
また逢う日まで / 尾崎紀世彦
田家:1971年3月発売。尾崎紀世彦さん「また逢う日まで」、この曲は50周年ということになりますね。作詞が阿久悠さんで、作曲が筒美京平さんです。どんなことを思い出されますか?
本城:尾崎紀世彦を始めたのはビクターからフォノグラムが独立して。それで、私がまず最初に思ったのが、それまで男性のソロシンガーとはあまり縁がなかったんですよね。
田家:あーたしかに。先週まではあまり出てきませんでした。
本城:女性は森山良子を日本一のポップスシンガーにできると思ったので、なんとか男性のポップスシンガーを育成したいなと思ったんです。それで、尾崎を紹介された時にびっくりしたんですよ。「すごい声の人がいるな」と思って。それから、歌唱力と。それでもう、ぜひこれをやりたいと。すぐ契約しましたね。
田家:それはどこかに歌っているところを観に行かれた?
本城:あ、そうです。出版社の日音さんの紹介で、六本木のサパークラブで彼が歌っているのを聴かせてもらったんです。他の会社で話を進めていたらしいのですが、結論がなかなか出なかったので引き受けたいって。「うちでやるよ」って言って。
田家:この「また逢う日まで」はその前にズー・ニー・ヴーが歌っていたというのもありましたけど。
本城:ああ、そうですね。「ひとりの悲しみ」っていうタイトルでね。私、その曲知らなかったんですけどね。一弾目は京平さんでやって、二弾目をやる時に「どういう曲にしようか」っていう打ち合わせをやった時に、今は亡き日音の村上さんから「実はこういう曲があるんだけれども」というので聴かせてもらったのが「ひとりの悲しみ」で。これは尾崎にぴったりだなと思って。「じゃあ、これやりましょうよ」と。ただ、詞を変えてやらなきゃいかんと。この詞だけじゃちょっと地味だし。
田家:あ、詞は変えたんですね。なるほどね。
本城:それで阿久さんにね、「サウンドの方は僕が受けますから、詞は村上さん、阿久さんと交渉してよ」って言って。ところが、阿久さんがなかなか了解しなくて。大変だったんですよ。
田家:オリジナルも阿久さんだったんですか。
本城:そうです。もうギリギリまで阿久さんも悩んだらしくて。
田家:サウンド面の筒美さんとの話し合いはどのようにやったんですか?
本城:それは別にアレンジは抜群だったので、このままいきましょうよってそのままその譜面を使わせてもらってます。
田家:やっぱり、ホーンが入ったりしているみたいな感じが。
本城:はい、そうです。あのイントロ、そのままほとんど変わってないと思いますよ。
田家:いやーこれはもう、みんなびっくりしましたもんね。さて、この次の曲も今日は本城さんが選ばれております。1971年7月発売、3枚目のシングル「さよならをもう一度」。
さよならをもう一度 / 尾崎紀世彦
田家:1971年7月発売、尾崎紀世彦さん「さよならをもう一度」。スケールの大きい曲だなと思いますが、作詞が阿久悠さんで、作曲が川口真さん。「人形の家」の川口さんです。
本城:川口さんはアレンジャーとしては随分お世話になって、テンプターズに曲を書いていただいていた。良いセンスをされていたのですが、京平さんの「また逢う日まで」とちょっと気分を変えて、「バラードの名曲を作ろう」で、布施明を打倒しようと(笑)。
田家:そうなんだ(笑)。打倒布施明だった。たしかに。「また逢う日まで」は、曲というのは、それを歌うべき人に出会わないと、名曲にならないという典型的な例かもしれませんね。
本城:それは言えますね。たしかに。
田家:他の人が歌ったら、ダメなんでしょうね。
本城:と、思います。
田家:この「さよならをもう一度」と「また逢う日まで」が出た1971年はGSが終わった年。完全に終わった年ですね。そういう世の中が変わっているなってことは、いろいろお感じになったりもされてたんですか?
本城:まあ、感じました、当然ね。会社も変わりました。
田家:ああ、そうか。フィリップス・レコードがビクターから独立して、日本フォノグラムになった。
本城:やっぱり70年代ということで、音楽の流れも変わっていくだろうという予兆はありましたね。
田家:それはある種のアンテナみたいなものがあったんですか?
本城:そうですね。ただ、ロックと言っても、当時は、結局ハードロックみたいなものがメジャーになるかどうかというのは、なかなか見極めが難しいというか。それはGSとのいろいろな経験もありましたしね。ただ、音楽的には新しいものをやっていきたいというので、アルバムで”ニューミュージックシリーズ”という、新しいシリーズを作ったんですよ。それはジャンルこだわらずにジャズもロックも入れたシリーズだったんです。ニューミュージックという言葉はそれとは別に使われるようになっていったんですけど。
田家:え、ニューミュージックシリーズ。そうなんですか。
本城:要するに新しい音楽をやっていこうという意思を表明したんですけれどもね。そこでちょうどいろいろな縁があって、ジャズの菊地雅章というピアニストと契約して、そこでは新しいジャズを作っていく。一方、ちょっと新しいロックというのを模索し始めて。そこでレーベルもロックに関してはヴァーティゴというレーベルを立ち上げたりしたんです。
田家:次にお送りするこの曲というのはそういう流れの中では、かなり早い段階の曲になるんですか?
本城:そうですね。私担当以外にも、ロックを始めた人たちもいましたけれども。私はたまたまそれまでの人脈というか、自然な流れで、学生時代に知り合った成毛滋くんとか、ジャズで菊地雅章をやった時に渡部貞夫カルテットと菊地雅章セクテットと合同のアルバムを2枚組で作ったんです。その時、渡部貞夫さんのカルテットのドラムを叩いたのはつのだ☆ひろだったので。つのだ☆ひろとも親しくなって、そしたら成毛くんとつのだ☆ひろが、一緒にグループを、新しいロックをやりたいと相談に来た。
田家:で、次の曲が生まれた。
本城:はい、そうです。
田家:これね、誰が歌っているかは知らなくても曲は知っているという例ですね、典型的な曲でしょうね。1971年6月発売STRAWBERRY PATHで「メリー・ジェーン」。
メリー・ジェーン / STRAWBERRY PATH
田家:自分の番組でこの曲を流せているということに多少感極まっておりますけれども、1971年の6月発売、STRAWBERRY PATHで「メリー・ジェーン」。1971年オリジナルです。
本城:これ発売されて、日本人が歌っているって思った人、あまりいなかったみたいですね。
田家:いなかったでしょうね。
本城:有線放送でまず火がついたんですけどね。
田家:慶應のバンド、ザ・フィンガーズのギタリスト成毛滋さん、そして渡部貞夫さんのところにいたつのだ☆ひろさん。これ、最初に聴かれた時はどう思われたんですか?
本城:アルバムとしては要するにハードロックアルバムを作るということで、その中の息抜きと言うと悪いんですけども、バラードを1曲入れようと。シングルカットする時に最初A面は別の曲を選んだんですよ。その中の1番ハードロックらしいポップな曲で、「マイ・ジプシー・ウーマン」という曲があって。それは柳ジョージがソロを歌っていたんです。柳ジョージをゲストで入れていたんですね。
田家:やっぱり。柳ジョージがいたという噂は聞いたことあって(笑)。
本城:ええ。ゲストで成毛くんが引っ張ってきて、それで歌ってもらったんです。それで、編成会議で「メリー・ジェーン」をB面にしたら、「やっぱりこっちが名曲だから、こっちをA面にしましょうよ」って言うので、ひっくり返って「メリー・ジェーン」がA面になったんです。
田家:いやー、でもこんな日本の歌なかったですもんね。『大烏が地球にやってきた日』のライナーを後に作家になる景山民夫さんが書いてたという。
本城:ああ、そうですね。成毛くんの親友だったんですね。
田家:慶應ですからね。
本城:ええ。そういう縁で。スタジオにも遊びに来てましたけども。
田家:で、このSTRAWBERRY PATHが母体になって生まれたのが、バンド、フライド・エッグ。このへんからロックシーンの中で名前が登場するという、そういう流れですね。フライド・エッグは成毛滋さん、つのだ☆ひろさん、高中正義さん、高中さんはベースでありました。本城さんが選ばれた今日の5曲目。デビューシングル72年2月発売「サムデイ」。
サムデイ / フライド・エッグ
田家:1972年2月発売、フライド・エッグの「サムデイ」。この曲ではどんなことを思い出されますか?
本城:サムデイはアルバムの中では1番メロディアスでポップな曲だったので。
田家:作曲が、つのだ☆ひろさん。
本城:これもそうですね。つのだ☆ひろのセンスがよく出てるかもですね。
田家:さっきちょっと話に出ましたけれど、ニューミュージックという言葉をそういうシリーズで使われたんですね。
本城:そうです、そうです。要するに70年代、新しい音楽をやっていこうという意思。そのシリーズ名に込めたんですけどね。
田家:71年ですか?
本城:いや、70年の後半じゃないですかね。
田家:うわー。ニューミュージックの語源っていろいろあって、その中の1つに三浦光紀さんがベルウッド・レコード設立の企画書で使ったというのが定説になってますが。
本城:まあ、非常に使いやすい言葉ですよね。ある意味ではね(笑)。
田家:この方が早いという説が、今一つ明らかになりました。でも、GSをずっとお作りになっていた方にとって、GSがなくなっていって、こういう新しいロックが登場してくるというのはどんなふうにご覧になっていたんですか?
本城:まあ、時代の流れというか。結局、日本の音楽文化って海外にも非常に影響を受けているわけですから。ビートルズが消滅したのと、GSが消滅したのは同じ時期だったし。そういった意味では違和感はあまり感じてませんでしたしね。
田家:なるほどね。こういうのが新しいんだなと。フライド・エッグというのはどういうバンドとして残ってますか?
本城:うーん、これは結構趣味的なバンドでしたよね。実験的なこともあったし、非常に演奏的には達者な面があってなんでもできちゃう。結構ロックを使ったパロディみたいな、向こうのグループの真似というか、コードがね、音楽的な遊びですか。ちょっとダブルミーニングで一般には分からない言葉を引っ掛けて曲を作ったりとか。楽しみながらやっていましたね。
田家:この「サムデイ」の入ったアルバムのタイトルが『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』ですね。
本城:ええ、そうですね。成毛くんが名ギタリストだったので、ギタリストとしての出番がなかったからかわいそうでしたけれども。
田家:僕は71年の箱根のピンク・フロイドの野外イベント、アフロディーテで観ました。
本城:ちょうど、はっぴいえんどと同じ時期だったんですよね。はっぴいえんどと真逆の音楽やってましたけどね。
田家:次の曲はですね、ピコ、樋口康雄さん。曲は「I LOVE YOU」です。
I LOVE YOU / 樋口康雄
田家:この曲から何曲かは知られざる才能、早すぎた名曲ということになるんでしょうか。1973年2月発売ピコの「I LOVE YOU」。2枚目のシングル「アダムとイブも」はB面の曲です。この曲を選ばれているのは?
本城:当時、1972年、彼はなんでもできる男でね。その後、ニューヨーク・フィルとレコーディングしたり、ピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲や、弦楽四重奏やいろいろなクラシックの曲を書いたりして。手塚治虫さんからもすごく気に入られてね。手塚さんの音楽もやったりとか、CM音楽もやって。とにかく天才としか言いようがない。このアルバムを作るきっかけになったのは、この前の石川セリのデビューアルバムを彼が「八月の濡れた砂」以外は全曲彼が作曲選曲担当して、それがすごいおもしろかったんで。ほとんどそれと同時期にこのアルバムを作ったんです。
田家:高校在学中からNHKの音楽番組のアレンジをしていて、ステージ101のグループ、シング・アウトのメンバーでもあって、当時から天才少年と呼ばれていた。アメリカの音楽出版社と作家契約した第一号なんだそうですね。
本城:たまたまMCAの出版が日本にあったので、そこの制作と親しかったんで、そこからの紹介ということもあったんですけれども。ただこれ、全然売れなかったんですよね。はっきり言って。まあ、プロモーションのしようがなかったということもあったんですけどね(笑)。ところが、これが90年代中頃からね、要するにクラブミュージックというか、クラブシーンが大流行の時代に、渋谷系の音楽が流行ったのと並行して、誰が発火点か知らないんですが、あるDJがどこかでかけたと思うんです。それをきっかけにこの曲が急に評判出てきちゃって。レコードがどこ行ってもなくて、えらいことにアナログ盤が高騰して、CDレコード出さないかというのが殺到していたみたいですけどね。もうとっくに廃盤になっていましたけどね、30年経っていて。
田家:1972年9月に出た1枚目のアルバム『ABC~ピコ・ファースト』というアルバムの中に入っていた。
本城:はい。しかも、これ2枚目のシングルのB面なんですよね。時代が変わるとやっぱり、渋谷系のカジヒデキの音楽とかに共通するところがありますよね。
田家:ありますね。作曲、編曲、ボーカル、キーボード、オーケストラアレンジ全部一人でやっていた。そういう人でした。後半はそういう再評価されてきている曲、再評価されている才能という流れでもあります。次の曲は78年5月に発売になった網倉一也さんで「Good-Bye横須賀」。これはアナログ盤なので、ちょっとノイズが入ります。
Good-Bye横須賀 / 網倉一也
田家:1978年5月発売。網倉一也さん「Good-Bye横須賀」。詞曲は網倉さん自身で、アレンジは瀬尾一三さんです。さっきのピコが72年、73年で、この網倉さんが78年。間に5年、6年空いているのですが、この間にいろいろな名盤、アルバムを本城さんはお作りになっていて、そのアルバムの話が来週ということになります。この曲を選ばれているのは?
本城:男性のシンガーソングライターは私、あまりやってないのですが、彼は非常に良いメロディを書くんです。アルバムを2枚作ったのですが、残念なことにあまり成功しなかった。ただ、作家としてはいろいろな人に曲を提供して、ヒット曲を十分書いているんですけれども。郷ひろみさん始め、柏原芳恵さんとか。やっぱり、作家向きの人と、アーティスト向きの人といますね。作家向きだったんだなって、今思えばね。これも良い曲で、横須賀とか、神奈川県の有線の中ですごくヒットしたのですが、なかなか全国的には売れなかったんです。
田家:やっぱり、作家向きの人と自分で歌って表に出て、パフォーマンスもして、それで曲が活きるみたいな人もいるんですね。
本城:「夜のヒットスタジオ」なんかに出したんですけどね。やっぱり、出すべきじゃなかったかなって反省しちゃったんですけど(笑)。非常に良い曲を書く人間だからね。声もいいし、惚れちゃうんですね。そういうアーティストには世の中に紹介したいという気が。それでアルバム作りになるんです。
田家:本城さんご自身も作曲されているわけで、作曲家としての物差しはどこかにあるんですか?
本城:多少あるかもしれませんね。それと、その時代に合っているかどうかということもありますけどね。これもちょうど、まだウエストコーストロックが全盛時代ですから、そういった意味では完全に合ったものにはなっているんです。
田家:でも78年頃というのはやっぱり、80年代みたいなことがチラチラ見え始めてたでしょ。
本城:うん。時期でもありましたからね。そういった意味では時代の先を行っていたわけでもなかったですよね。
田家:80年代ってどんなふうに見えてたんですかね。
本城:あまりはっきり見えてませんでしたね。どんどん音楽がデジタル化して、アコースティックなものの良さがなくなっていくのは、私はあまり好きじゃなかったんです。
田家:ああ、なるほどね。次の人は80年代を予感させた1人になるのではないかと思ったりもしていましたが、本城さんが選ばれた今日の8曲目。1979年4月発売。山本達彦さん「ある日この夏~TWO WAY SUMMER」。
田家:1979年4月発売。山本達彦さん「ある日この夏~TWO WAY SUMMER」。ソロの2枚目のシングル。この曲のアレンジは松任谷正隆さん。この曲はどうですか?
本城:男でピアノを弾くシンガーソングライターはあまり経験なかったし初めてだったので興味を持って。非常にポップな良い曲を書くし。3枚アルバムを作って、その後東芝さんに移籍しちゃったんですけどね、引っ張られて。ブレイクする前に移籍しちゃったんです、残念なことに。
田家:そういう今までやったことのない、手がけたことのないアーティストを一緒にやってみたい気持ちはずっとおありになりますか。
本城:ありますね。やっぱりね。新しい出会いと新しいことをする人というか、新しい気分がありますよね。同じことの繰り返しじゃないと、仕事のしがいがあります。
田家:山本達彦さんは当時、シティポップスの貴公子みたいな言われ方をされたりしましたもんね。今は脚光を浴びている1つの流れになっていますけれども、それはどんなふうに思われますか?
本城:私のやっていた仕事は、結局そういう良質な都会的なポップスをやっていたので、まあ、今更という感じもするんですけれども(笑)。
田家:僕はずっと作ってきたよって(笑)。
本城:ただね、やっぱりここのところずっと音楽が非常にダンスミュージック化し、ティーン・エイジャー化するというか。大人のあまり美しい音楽とか、本当になくなってきちゃったので、そういった意味ではそういう復活というのはいいんじゃないかなと思いますけどね。
田家:自分がやってきたことが正しかったというか。
本城:そうですね。今の時代にまだ通用する部分があるのかなという気がしてますけども。
田家:時代を越えてきたということもあるんでしょうしね。そういう新しい才能というのを思いがけない形で世の中に登場するんだ、送り出されるんだという例を次の曲でお分かりいただけたらと思ったりするのですが、1979年7月、石川セリさんのシングル。作った人が誰かというのは曲の後にお話をしたいと思います。「ムーンライト・サーファー」。
田家:石川セリさんの6枚目のシングル、1979年7月発売。「ムーンライト・サーファー」。詞曲を書いたのは中村治雄さん。と言ってもお分かりにならない。頭脳警察のPANTAさん。編曲が矢野誠さん。これはPANTAさんにお願いしたんですか?
本城:そうですね。誰かに勧められたんですよ。「PANTAっておもしろいんじゃない?」って。僕、あまり頭脳警察は聴いたことなかったので(笑)。
田家:でしょうね(笑)。
本城:1回会ってみようかなと思って。会って話したら、なかなかおもしろい男でね。彼は結構ガールフォークみたいなのが好きで、非常に興味を持っていて、僕が頭にないようなおもしろい曲を書けるんじゃないかなという予感がして。「じゃあ、書いてみて」って言って、頼んだんです。で、出来上がったのがこの曲だったんですね。
田家:1977年のアルバム、石川セリさん3枚目のアルバム『気まぐれ』の中の名曲ですね。でも、実質的には2枚目のアルバム1976年の『ときどき私は』の次ですが。
本城:セリもPANTAの音楽を気に入って、これからずっとアルバムで書いてもらっているんですよね。それで、結構シングル盤になっているんです。この曲以外にも。「パール・スター」とかね。結局、3枚シングル出してるんじゃないかな、彼の曲で。
田家:PANTAさんがこういう曲を書くというのは、当時のイメージには全くなかったですもんね。
本城:そうですね。本当はユーミンみたいな曲が1番合うなと思っていたんですけどね。
田家:石川セリさんの1976年の『ときどき私は』ですね。ユーミンとか、下田逸郎さんとか、さっき話に出た樋口康雄さんとか、萩田光雄さんとか、瀬尾一三さんとか、佐藤健さんがお書きになっていて。このアルバムの話は来週お訊きしようと思っているんですけど、まあでもPANTAさんはそういう本城さんからの依頼がなかったら、こういう形で作家としては。
本城:そうですよね。あまり他の人に書いたって話聞かないんですけどね。
田家:はい。で、今週はもう一人女性アーティストの話を伺おうと思うのですが、石川セリさんとはタイプが違う大橋純子さん。この「ムーンライト・サーファー」が入っている『気まぐれ』と同じ年に77年に美乃家セントラル・ステイションのアルバムが出て、この話も来週なんですけど。でも、それぞれにイメージが違ったんでしょうね。石川セリさんと大橋純子さんは。
本城:極端に言えば、大橋純子はニューヨーク、東海岸寄りのどっちかと言うと、黒人寄りのポップス。で、石川セリはウエストコースト系のポップスという、色分けをすればね、大雑把に言えばそういう色合いがあったと思うんです。
田家:それは声の質とか?
本城:質感もそうですね。それと、フィーリングも含めてね。だから、大橋純子の方が所謂シティポップス路線というか、そういうあれでしたよね。
田家:今日最後の曲は大橋純子さんの1981年のソロアルバム『ティー・フォー・ティアーズ』から「テレフォン・ナンバー」お聴きいただきます。
テレフォン・ナンバー / 大橋純子
田家:この曲を選ばれているのは?
本城:これは大橋純子でやってきた、シティポップス路線の究極だと思うんですよ。そういうので、ずっとバンド主体でレコーディングしてきたので。
田家:美乃家セントラル・ステイションで。
本城:バンドをやってきて、これはその後、私が手がけた最後のアルバムが、彼女のソロのアルバムだったんですけどね。この後、彼女は海外へ行って、ロスとニューヨークでそれぞれアルバムを作るようになって。それはもう私の手を離れて。海外で生活をして、海外でレコーディングをするようになったんですけどね。日本でやった最後のアルバムです。
田家:なるほどね。それもじゃあ、思い入れが他のものと違ったり。
本城:そうですね。しかもソロアルバムですしね。
田家:ソロになる時に彼女の意見があったりして、そうなったんですか?
本城:うーん、まあ結果的にバンドでやることも十分やり終えましたしね。それとこの前後に「シルエット・ロマンス」というヒット曲が出て。これが多少歌謡路線で、本人はあまり気に入ったあれじゃなかったんですけど、ヒットしちゃったんですけど。それは「たそがれマイ・ラブ」と同じで。そういうこともあって、彼女は海外へ行くようになったんです。
田家:なるほどね。「シルエット・ロマンス」があったということが、転機になったりした。
本城:まあ、ありますけどね。今ではもちろん「シルエット・ロマンス」とか、「たそがれマイ・ラブ」も大事にして歌ってますけども。まだ若かったですから、彼女も。自分の目指す音楽は違うんじゃないかということを感じたんじゃないですかね。
田家:冒頭でジャンルという話をした時に、やっぱり歌謡曲的なことを入れてヒットを狙うこともあるけどっておっしゃってましたけど。そういう例が出てきたりしたということなんでしょうね。
本城:そうでしょうね。後から考えれば、それも歌手としての財産でね、それはそれでいいんですけど。やっぱり、そういう時期ってありますよね。
田家:でも、ヒットプロデューサー、ヒットディレクターというのはその両面できないといけないということでもあるんでしょうね。来週は名盤ということで、アルバムについてまた伺おうと思います。ありがとうございました。
本城:どうも失礼しました。
田家:J-POP LEGEND FORUM 本城和治さんの50曲。1970年を境にしたJ-POPシーンの立役者。日本語のポップスの生みの親の一人、元フィリップス・レコード、そして日本フォノグラムのプロデューサー、ディレクター、本城和治さんがゲストの5週間。今週は名曲編。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」。
どんなレジェンド、巨人、スーパースターにも世の中に出るきっかけというのがあったわけですね。もし、彼や彼女がこの人に出会っていなかったら、違う出方になったのではないか。まあ、それまで実績のない人はそういう出会いがあったことで、その後が決まっていくわけです。中にはそうやって出会った、世の中に送り出されたんだけれども、その時は評価されなかった。でも、時間が経ってから、改めてその人、その人が作った曲に脚光が当たっていくという、そういうケースもあります。
いずれにしても、その人がいなかったら、その人たちの歴史は始まってない。本城さんのキャリアはそういう積み重ねなんだろうなと思いましたね。荒井由実さんもアルファ・レコードには行ってないかもしれない。アルファ自体がどうなっていたか分からない。石川セリさんもそうですね。そして、1972年、長谷川きよしさんの「黒の舟歌」。同時にピコの「I LOVE YOU」。両方を同じ方が作っていたということが、あらためて今日、「あ、そうだったんだ。プロデューサー、ディレクターのセンスというのはこういうものなのかもしれない。目利きというのはこういう人のことを言うんだろうな」と改めて思わせてくれました。音楽のスタイルもそうですね。当時はそんなに顧みられなかったんだけれども、40年ぐらい経って、改めて評価されていく。シティポップスがまさにそういう1つの現象になっています。その源流にいたのも、本城さんでした。来週はアルバムの話をいろいろお訊きして、今月を締めくくろうと思います。

<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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本記事は「Rolling Stone Japan」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。
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