大江千里が今だから語りたいマイ・ソング、デビューから87年までを本人と振り返る – マイナビニュース

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日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年9月の特集は「大江千里」。1982年、関西学院大学2回生の時にCBS・ソニーオーディションの最優秀賞を受賞し、1983年にピアノを弾いて歌う男性シンガー・ソングライターの新星としてデビューした大江千里。80年代キャンパスカルチャーのシンボルとしてキャリアをスタートさせたその後もソングライターとして数々のヒット曲を残してきた彼をゲストに招き、「今だから語りたいマイ・ソング」をテーマに、自薦した楽曲の制作秘話や思い出のエピソードを赤裸々に語っていく。パート1では、ラジオパーソナリティの田家秀樹とともに、83年から87年までの楽曲について掘り下げる。
田家:こんばんは。 FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは大江千里さん「Letter to N.Y.」。2008年にジャズを学ぶためにニューヨークに移住した彼の最新アルバムのタイトル曲です。今日の前テーマはこの曲です。
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2022年9月は大江千里さんの特集です。2007年に47歳の時に日本での活動に区切りをつけてニューヨークのニュースクール大学に入学。2008年に移住して、今も向こうで活動中です。『Letter to N.Y. 』は7枚目のジャズアルバム。今年から来年にかけてがデビュー40周年ということで、今年6月に初めてのシングルコレクション『Senri Oe Singles〜Special Limited Edition〜』が発売になりました。今月は5枚組のアルバムの中から今だからこの曲を語ってみたいというご本人の話をお送りしようと思います。
大江:こんばんは。どうもお邪魔します。お久しぶりです。
田家:目下、日本でツアー中ですよね。
大江:そうなんですよ。「4つの夏物語」っていうね。今日は久しぶりに田家さんにお会いするんで、楽しみと緊張というか。
田家:このツアーは「里山物語」、「青山物語」、「鎌倉物語」と続いて9月6日に関学で、納涼フィナーレ・バースデーライブを行うと。
大江:レセプションホールでやります。懐かしき過去の自分に会いそうな不思議な気持ちで迎えますね。
田家:どういう曲をおやりになっているんですか。
大江:各地ピアノ1本だと色んなことができるので、毎回内容が違うんですよ。フィナーレは特に、学生の時に出したデビューアルバム『WAKU WAKU』、2枚目の『Pleasure』。この2つをメインに時空を超えて『未成年』『乳房』『1234』『OLYMPIC』と色んなアルバムをいったり行ったり来たりしながら、思いもたくさんしゃべって楽しくなると思います。
田家:今年の6月に初めてシングルコレクションが出たんですが、こういうのは初めてなんですね。
大江:そうですね。改めて聞いてみると「当時、戦って作っていたなぁ」っていうのと、時空を超えてまとめて聞いて「やっぱ音楽って楽しいんだな」って思いと2つありますね。
田家:5枚組のアルバムで、オリジナルが4枚組54曲、5枚目に提供曲が16曲入ってる。全部で70曲入っておりますね。今月はその中から千里さんが選んで頂いた曲で綴る「マイ・ソング・ストーリー」ということで、それも楽しみにして頂きたいと思います。
大江:最初はやっぱりこれかなと思って。僕のデビュー曲。1983年5月21日リリース、アルバム『WAKU WAKU』。そしてこの曲はシングルで出しました。「ワラビーぬぎすてて」。
田家:明日のライブではこの曲をおやりになるわけですよね?
大江:ライブはジャズアレンジver.でやる予定です。当時は大江千里のブランディング作りに一生懸命でしたね。学生の時から自分がどういうアーティストになりたいのかを24時間考えたり。自分のリアリティは関西学院にあった。中央の芝生で上半身裸になって夏は日焼けをして「キリスト教学どうするよ、じゃあ代返しといて」なんて言いながらね(笑)。そういう時間がこの曲には詰まってますね。
田家:当時どなたも思われたと思うんですが「ワラビー」ってなんだと(笑)。僕もそう思いました。
大江:「ワラビー」って、イギリスのブランドの靴のことなんですよ。
田家:東京の学生は知らなかったんじゃないかな。
大江:僕も高くて買えなくて、そういう自分の憧れ目線で書きました。
田家:実は一昨日、自分の仕事場に積み上げてある十何年間開けていないダンボールを何気なく開けたんです。そしたら『WAKU WAKU』のアナログ盤が出てきた。帯が付いてまして、キャッチコピーが「あなたの手の届くところにいる、今一番素敵な男の子」。
大江:いやぁ〜こういうキャッチコピーの時代ですよね。一番素敵な男の子がこれだけ毒舌かって思うけど(笑)。でもそんなイメージでしたよね。
田家:林真理子さんがコピーを書いたという話もありましたが、その話はまた後ほど。
田家:千里さんが選ばれた今日の2曲目。1983年12月発売、3枚目のシングルで「ふたつの宿題」。色々思い出したことがありましたか?
大江:当時って全部が具体的ですよね。「あの午後は4年前」とか「ここで出逢った君は平凡すぎる」とか。ヒリヒリしながら書いてました。
田家:舞台は学祭やキャンパスなんですけども、歌われてる内容はかなりヒリヒリしたものがありますよね。
大江:そうですね。当時のプロデューサー小坂(洋二)さんから「千里は詞をもうちょっとやった方がいいから、映画でも何でもいいから徹底的に研究して、気になるセリフとかをノートに書き留めろ」って言われて。何本も映画を見て言葉をノートに書き留めてました。そのノートをパッと開いて映画のシーンを思い浮かべながらピアノを弾いて曲を作りました。あと、自分が経験したことを片っ端からメロディに乗っけていきました。Bメロで時軸を変えて、久しぶりに会ったらお互いに平凡な大人になってたって。
田家:大学生シンガー・ソングライターというあり方はどう考えていたんですか。
大江:ずいぶん便利な立ち位置で、東京に行くと「すいません学生っぽくて、さっきまで卒論を書いてました」みたいなことをほざいて(笑)。で、新幹線で3時間半ぐらいかけて関西に戻ると「昨日六本木でさぁ」みたいなことを、標準語で言ったりなんかしてね(笑)。リバーシブルなある種のエトランゼというか。自分の立ち位置がフラフラとあっちにいったりこっちいったりできる楽しさを味わっていましたね。
田家:面白がっていた感じなんですね。さっきもちょっと話に出た林真理子さん。80年代といえば「キャンパスカルチャー」、ある種の軽いカルチャーのことを「軽チャー」と呼ぶみたいな。そういう時代の空気の中にいましたよね。
大江:林さんやananの高野さんに初めてお会いした時に「千里さんを原宿の素敵なカフェにお連れしたい!」って言われて。当時、髪にタオルみたいなものをつけて、大きなスカートなんかを着たお客さんが、足が届かないようなカウンターに座ってカクテル飲んでいるような、東京のそういう最先端に混じってることが新鮮で楽しかったです。林さんと高野さんがしゃべる会話の語尾まで聞き漏らさないようにしようと思ってましたね。
田家:関西にはそういうのはまだなかったんですか?
大江:関西はまたちょっとクセが強くて。古い3階建てのビルをそのまま改造した「パームス」とかっていうビルがけっこう有名で、僕はそこにレコード屋さんとかを集めてデビューパーティーをやりましたね。
田家:当時、大江さんが東京と関西、それぞれのカルチャーの架け橋の人になってたということでもあるのかもしれないですね。
大江:デビューの日はバーボンハウスっていうライブハウスで1時間ぐらい自由な時間もらったので、御堂筋線に乗って心斎橋に『WAKU WAKU』を探しにミキ楽器に入っていったんだけど、ワのコーナーにはなくて。大江千里だからってことでオのコーナーを探したらやっと見つけて。誰にも見つからないように一番目立つところに置いてさ(笑)。すぐに梅田のバーボンハウスに何食わぬ顔で戻って来て、デビューコンサートをやってましたね(笑)。
田家:青春ですね(笑)。
田家:大江さんが選ばれた今日の3曲目、「君と生きたい」。1986年10月に出たシングルでした。
大江:もう渾身の一作で。アマチュアの頃から「俺はプロになってすぐ売れる」って大きな夢を抱えてやってきて。ただ、『乳房』まで出して頭打ちになって、「そんな生易しいもんじゃないぞ」って思ったんです。ちょっと時間もらって、もう1回人間として1からご飯を作って、詞を書いて、アーティストとして蘇生しようって思いで詩を書き出したんですよ。ある日「いい加減に1曲形にしなきゃまずいぞ」って思い、できたのがこの曲。痛みを持って苦しんでる人を抱きしめるっていうか。真面目であることを恥じることはないし、そういう人がこれを聞いてキャッチしてくれたらなと。真面目なことを責めないで、本当に孤独は始まったばかりなんだからっていう思いの丈をメロディに乗っけて作りました。作り終わった時には倒れ込んでしまうぐらいエネルギーを出し切った曲ですね。
田家:今日はアルバムの曲順にとらわれずに千里さんに選んで頂いているわけですが、「ふたつの宿題」が3曲目で、4曲目「Boys & Girls」 、5曲目「ロマンス」、6曲目「十人十色」、7曲目「リアル」、8曲目「フレンド」、9曲目「コスモポリタン」という順番に続いて「君と生きたい」があるわけで。色んな喜びも苦しみも、今挙げた4曲目から9曲目までに詰まっているということなんですよね。
大江:あまりに時間が早く進んでいく中で、自分では受け止めてやってきたつもりではいたんだけど立ち止まってしまって。そんなタイミングでこの曲が生まれた。「AVEC」「去りゆく青春」「マリアじゃない」ができて、誰とやろうっていう時に大村雅朗さんとしゃぶ禅に行って2人で音楽の話を延々としたのが楽しすぎて。大村さんの優しさ、気遣い、繊細さ、本当に僕の話をよく受け止めてくれて。「大村さん4曲書いたので聞いてください」って言ってすぐ打ち合わせに入って。最初の曲が「マリアじゃない」と「君と生きたい」でした。
田家:さっき話に出た林真理子さんたちと一緒に、原宿で最新ファッションの中にいて楽しいと思ってた時期が終わって、ここに来てるんですね。
大江:林さんも本を書いたり連載が始まったりして。僕も『未成年』でオリコン5位になって一気に忙しくなって。でも心がまだアマチュアのままでした。『OLYMPIC』を作った時に自分で作ったコピーが ”永遠のアマチュアリズム” みたいなことで。でも周りから求められるクオリティには全然たどり着けなくて。奥沢から東急線に乗って渋谷まで出る時にずっと吊革に捕まって景色を眺めて、途中の駅で降りて、膝に紙を置いて、鉛筆で中目黒の景色とかを言葉で書いてましたね。連結で喧嘩をしてたこと。つり革を掴まろうとした拍子に誰かの手を握ってしまったこととか。そういう細かい描写をいくつも書いてそれをノートに糊で貼って。また「よし今日書こう」と思って無作為にページを開いたら「連結で親父と偶然会ったのに二言しか喋らなかった」みたいな言葉が出てきたり。そういう風に私小説っぽいフィルターを通して、新たな物語の作り方みたいなものを覚えていきましたね。
Bedtime Stories / 大江千里
田家:先程の「きみと生きたい」の次に発売されたシングルがこれですね。
大江:「AVEC」を作り終えて、プロデューサーの小坂さんに「クリスマス前に12インチシングルを2曲出したい」って言って作りました。この曲は僕がカトリックの幼稚園に通っていたとき、「エミル」という洗礼名があって。当時教えられていたのが、例えばおばさんが困っていたら手を差し伸べて横断歩道を渡るとか、そういう行いをしてる人は何か困った時に今度は自分が誰かに助けられるみたいな考えがあって。その”分け合う”っていう感覚を歌にしたんですね。これを聞いて渡辺美里さんが涙声で「こんな曲は聞いたことない、今までずいぶん苦労したとか、色んなことがあって傷ついたっていう歌詞はあるけど、今までこんなに幸せだったけど君と出会った今日が一番幸せだって」って声を詰まらせて言っていて。自分でもこのフレーズは気づかなかったなと思いましたね。
田家:渡辺美里さんを涙ぐませた一曲と。
大江:ストリングスを入れて欲しいって大村さんにお願いして、レコーディングの日にスタジオに行ったら沢山の人が待ってて。僕の歌を聞きながら演奏してくれて、もう涙が出ましたね。
田家:杉並児童合唱団が一緒に歌ってるんですよね。
大江:はい、そうです。
YOU / 大江千里
大江:これは大変でしたね。僕はアップテンポな曲って書けないんですよ。僕はカーペンターズやギルバート・オサリバンとかの世界観に影響を受けてきた。でも「チャ!チャ!チャ!チャ!チャン!フ~!」とかっていうのは新しい引き出しを開けていかなかきゃいけない。「逆向きの」ってところまで書いたら疲れて横になるぐらい(笑)。「逆向き」って歌詞を何回繰り返して変えたか。
田家:やっぱ、詩が先でそれに曲をつけてくみたいな感じだったんですか?
大江:いや、弾きながらメロディと詩を一緒にですね。「逆向きの地下鉄に揺られて」って歌詞の「揺られて」って部分ができたら次が出てくるっていう。鼻濁音があると次は「あ」とか「か」とかが出てくる。音の煌めきと濁りを徐々に混ぜながら自分で景色を作っていくっていうか。サビまで我慢して「君だけを」って歌詞の「だ」のところでパーン!と広げる感じ。そこにピークを持っていったという感じですね。
田家:アルバムに付いているブックレットには大江さんの解説が入っているんですが、「YOU」の解説では引退も考えたと書いてあります。そうだったんですか?
大江:書けないし、毎回「これが最後だ」「もうこれが終わったらやめる」って思いながらやっていましたね。曲を書いたら次のツアーで全てを出し切って終わろうっていう感じで。でも最終日とかその前の日とかにいいのが出来ちゃって辞めれなくなってまた次を作ってって。もうその繰り返し。
田家:85年の「REAL」を作っていた時には失踪してるっていうのも書いてありましたが。
大江:そうなんですよ。『未成年』の中に入ってる「REAL」って曲の詩が書けなくて。歌を録りに一口坂スタジオに行かなきゃいけないのに詩ができていないから公園でずっと詩を書いて(笑)。「リアルに生きてるか 誰にも邪魔されず 憎む全てを消せなくて 泣いたりしていないか」って歌詞を書くのに苦労しました。「泣いたりしていないか」の着地まで持っていくための緊張感あるフレーズが思い浮かばなくて。何台も中央線を見送りながら失踪しましたね。なんとか最後スタジオに行って、一口坂スタジオのみんなの姿をガラス越しに見ながら手前のトイレに入ってしゃがんで「泣いたりしてないか」って着地まで詩が書けて。バァーーっとスタジオに入っていって「詩ができました!」って言って。汗ダラダラになったままヘッドホンを付けて歌入れをしたのを覚えています(笑)。
POWER / 大江千里
田家:1987年12月に出た12inchシングル『POWER』。
大江:これは『OLYMPIC』を出して勢い余って作った12インチですね。
田家:5年間に色んなことがあったんだなって、この曲から感じますね。
大江:音楽という社会で戦ってきて、自分の名刺だと思って納得できないものは出したくない。だけど、自分はアーティストって言葉使って商業音楽の土俵にいるわけで、売れないものを作ってしまったら明日がない。そうなった時に妥協ではなく、どこに沸点を見出していくかみたいな戦い。自分の中で迷いと不安と自信とかがぐちゃぐちゃ煮立ちながら。そういう自分の内側を曲にぶち込んでましたね。だからストレート。だけどやっぱり落としどころとしては「君たちと一緒に時代を乗り越えていって良くなっていきたいんだ」っていう自分の中のメッセージみたいなものを込めていましたね。
田家:このDISCには13曲シングル曲が入っているわけですが、アルバムだと6枚分ですもんね。ものすごく凝縮されたDISC1ですね。今日選んで頂いたのは、このアルバムに入ってる曲順通りではないんですよね。
大江:話が若干進んだり戻ったりと聞きづらい部分があったかもしれませんけど、僕の中でいくつかの話がペアになって収納されていて。特に1枚目2枚目は大村憲司さん。3枚目からは清水信之さん。5枚目『AVEC』で大村雅朗さんに出会って。それぞれとの出会いによって僕が形成されていくわけなんです。1人でできなかったし、強力な音楽のプロ、スペシャリストと二人三脚することによって、ものすごく学んでいくんですね。大村雅朗さんに教わったことは本当に沢山あります。未だに大村さんが住んでたニューヨークのチャーチストリートを通ると、空に向かって「大村さん、僕今ここにいるんですよ」って語りかけます。
田家:アルバムは1985年12月に出た4枚目の『乳房』。その中からのシングルカット。86年に出たシングル「コスモポリタン」。
大江:初めての外国で、フィリピンのプエルトアズールに行った時に、コーディネーションをやって下さった日本人の女性と僕の間にあった出来事から着想を得ました。「彼女はきっとこう思ってるんじゃないだろうか」とモデルにして。フィリピンだったり近いアジアの国には自分の知らない部分があった。同じこの地球という大地の上で踏ん張ってこれから生きていく中で、どういう感覚を持って生きていくのかって疑問を素直に彼女を通して歌にしました。
田家:80年代の半ばの日本の浮かれてる空気とは全く違うものがそこにあったということですね。
大江:なんか時代はキラキラしていて。僕もそういうのも大好きではあるんだけど、曲を書いてると、もっと違うところに自分たちは向かっている意識が強かったですよね。
田家:アジアと世界を意識させられた経験にもなっていると。
大江:はい。今自分がアジア人として異国で生きていて、最近のアジアンヘイトとかを感じることもありますし、全ての人種がごちゃ混ぜにいるニューヨークという場所で「コスモポリタン」を改めて聞くとあの時に書いた気持ちを思い出します。これから曲を作ったり表現したりする時に、何を訴えかけて伝えようとしてるのかを自己問答して聞いたりしていますね。
田家:そういうこともあって、 DISC1の紹介の最後の曲をこれで終えたということですね。来週は80年代後半から平成に向かっていくわけですが、どんな週になりそうですかね。
大江:もっとはっちゃけそうだし、色んなことありましたからね。でも包み隠さずお話したいことがありますので楽しみです。
田家:新しい発見が沢山ありました。来週もよろしくお願いします。

左から田家秀樹、大江千里
田家:「FM COCOLO J-POP LEGEND FORUM」、デビュー40周年、大江千里さんの日本での活動をたどる4週間、「今だから語りたいマイ・ソング」と題してお送りしております。今週はパート1、6月に発売になった初めてのシングルコレクション『Senri Oe Singles ~Special Limited Edition~』のご紹介です。今週はDISC1、83年から87年までの曲をお送りしました。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
1980年に関西学院大学に入学した。まさに80年代キャンパスカルチャーの申し子。その時代ど真ん中の学生だったわけですから、デビュー当時は神戸のハイカラなイメージというのが彼のカラーになっていましたね。東京と大阪を行き来しながら活動していて。ご本人はその落差ギャップを楽しんでたという話がありました。日本一忙しい学生と言われたこともあります。
80年代に登場した人たちはやっぱりあの時代のイメージからどう抜けていくか、どう変わっていくかっていう時期があるんですね。80年代の初めには「青春万歳!みんなキラキラ!楽しいね!」みたいなムードがあって、でもそうは済まなくなってくる。世の中も変わりましたし、社会もそうじゃなくなっていく。それぞれのアーティストも少しずつ大人になって色んなことが分かってくる。そういう時期を経て今を迎えているわけです。
千里さんは今日が61歳最後の日、明日62歳の誕生日なんですね。80年の青春は遥か彼方にあるんでしょうが、今だから語れるあの頃があると思うんです。今月はそんな4週間になればとも思っております。

シングルコレクション『Senri Oe Singles〜Special Limited Edition〜』ジャケット写真
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
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音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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本記事は「Rolling Stone Japan」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。
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