日本を圧倒する「韓国コンテンツ」不動の人気の訳 – Au Webポータル


いま、韓国のコンテンツは、YoutubeやNetflixといったグローバルなプラットフォームを主戦場に、世界中から注目を集めています。
BTSのグラミー賞ノミネート(2021、2022)や、「イカゲーム」のヒット(2021)など、韓国コンテンツを勢いづけた出来事から、「数年の間に韓国のコンテンツ業界はグローバル展開に力を入れ始めた」という印象をお持ちの方もいるかもしれません。
しかし、韓国がコンテンツのグローバル展開に力を入れたのは、約30年前のことです。今回は、今の勢いに至るまでの韓国コンテンツのグローバル展開にまつわる歴史をご紹介します。
今に至る韓国コンテンツの歴史を語るには、1990年代が起点になります。なぜなら、1990年代は世界各国で自国以外で制作された映画や音楽、つまり「グローバルコンテンツ」が注目され始めた時代だったからです。
1995年、いち早くその風を読んだ韓国の大手製糖会社CJ グループは、アメリカの映画会社ドリームワークスに3億ドルの出資を行います。それまでは韓国に限らず、アメリカを除き、どの国もエンターテインメントはほとんど「国内産業」としか考えられていなかったため、CJ グループの海外出資は当時、韓国国内でも話題となりました。
そして1990年代には、韓国の3大芸能事務所といわれる、SMエンターテインメント、YGエンターテインメント、JYPエンターテインメントの前身となる会社が創設された時期でもあります。これらの3大芸能事務所がなかったら今のK–POPはなかったといっても過言ではないほど、その後、次々と世界で活躍するK–POPアーティストたちを生み出します。
ところで、この頃から世界的にグローバルコンテンツへの関心が集まり始めたとはいえ、当時、アジア市場のニーズに応えられる良質なコンテンツは、日本のドラマと香港映画くらいでした。
しかし、日本のドラマは2次利用料が高く、著作権などライセンス関係の扱いが厳しかったため、輸入を試みた事業者は壁に直面しました。また、香港映画も1997年の中国返還をきっかけに、多くの俳優や制作資金が台湾やアメリカなどに流出してしまいました。そうした状況を受けて動き出したのが、韓国なのです。
韓国はなるべく早めにコンテンツをパッケージ化して売りやすいかたちにし、中華圏への輸出を始めました。そして1993年に「ジェラシー」、1997年には「愛が何だって」という韓国ドラマが中国で大ヒットし、アジア市場における日本や香港の穴を埋めたのです。
この時期の収益は今に比べるとそれほど大きいとはいえませんが、これをきっかけに韓国は「コンテンツやカルチャーというものがグローバルビジネスになる」ということに気付き、海外進出に力を入れるようになったのです。つまり、1990年代末頃から韓国は、コンテンツ・ボーダーレスの可能性を実感したといえるのです。
1990年代に始まった韓国コンテンツのグローバル化は、2000年代に入ってから本格化します。この時期は、韓国コンテンツにとって日本市場がとても重要な意味を持ちます。なぜなら、2001年にBoAが日本デビュー、2003年にはドラマ「冬のソナタ」がNHKで放送され、主演俳優ペ・ヨンジュンの人気も相まって空前の大ヒットとなったからです。いわゆる「韓流ブーム」の到来です。またその後の2005年には東方神起が日本デビュー、2008年に楽曲「Purple Line」でオリコンチャート1位を獲得しました。
このような予想を超えるほどの大きな韓流ブームに韓国も驚きましたが、この時代に大きな特徴として挙げられるのは、徹底的な現地化戦略です。
当時は、BoAや東方神起などが日本で活動をするために、日本に居住しながら日本語を一から学び、日本語で楽曲を歌いました。ときには日本人の好みに合わせた新しい曲も作っていました。つまり、初めから日本を狙い撃ちしてプロデュースされたということです。
ただし、こうした現地化戦略 は韓国の大手芸能事務所であるSMエンターテインメントに所属しているBoAや東方神起だからこそ実現できたことでもあります。なぜなら、ここまで準備を整えるのには巨大な初期費用 がかかっていたからです。
今はK–POPのアーティストがわざわざ現地に住んだり、その国の言葉を話さなくても、受け入れられるようになりました。しかし、K–POPとしてのジャンルが確立されておらず、SNSが発展途上だった2000年代は、現地化することでしか成果を出しづらかったのです。
そして韓国コンテンツがより大きく活躍するようになったのは、2010年前後でした。
日本での成功で自信が付いたこともあり、韓国エンタメ業界はさらに世界全体を視野に入れるようになります。ライセンス関係を整理するなど、海外進出に向け注力する業界に対し、多くの企業が投資をし、政府もコンテンツ関連の公共機関を設立して支援しました。
どのジャンルでも、世界的な名声を得るには、アメリカで認められることが不可欠かもしれません。韓国コンテンツで初めてそれを成し遂げたのは、K–POPガールズグループWonder Girlsでした。
Wonder Girlsは日本でも有名なJ.Y. Parkが手掛けたグループで、J.Y. Parkは当時、彼女たちと一緒にアメリカに住みながらアメリカでの活動に注力しました。その結果、2009年にWonder Girlsの「Nobody」がアメリカのシングルヒットチャートであるビルボード「HOT100」に韓国アーティストとして初めてランクインし、2010年には計27公演の北米ツアーを実現しました。
さらに、2012年にはPSYのミュージックビデオ「江南スタイル」が、YouTubeの再生回数で当時の過去最高を塗り替える大ヒットを記録し、世界を熱狂させました。2010年前後のK–POP が成し遂げた成果は、K–POPなど韓国コンテンツがアジアを超えて、全世界にアプローチするノウハウを築けたことだといえます。
アメリカでWonder GirlsやPSYが活躍する間、日本ではKARAや少女時代など韓国のガールズグループが大ヒットしていました。ドラマの人気が中心だった「第1次韓流ブーム」に対し、KARAと少女時代は日本におけるK–POPの先駆け的存在となりました。
また、男性俳優のチャン・グンソクがドラマ「美男ですね」をきっかけに絶大な人気を博したこともあり、この時期は「第2次韓流ブーム」ともいわれます。
しかしその後、韓国コンテンツは日本でしばらく影をひそめることになります。その背景については韓国に限った話ではありませんが、政治や国際情勢がコンテンツの輸出に影響を与えるということは少なくありません。2012年8月、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領(当時)が竹島(日本名/韓国名・独島)に上陸したことで、日韓関係に緊張感が漂います。
また2016年には、THAAD(終末高高度防衛ミサイル)配置の方針を巡って、韓国は中国との関係も悪化し、中国へのコンテンツ輸出も難しくなりました。
その影響で、日本や中国に向けての韓国ドラマの輸出や、K–POPアーティストのテレビ出演が激減。これまで大きな市場であった日本や中国で利益を生むことが難しくなり、韓国エンタメ業界は頭を抱えました。
しかし、テレビで見かけなくなったとはいえ、韓国コンテンツのファンが消えたわけではありませんでした。ライブを開催すればチケットは完売し、交流イベントも盛況だったのです。「テレビなどのマスメディアに出なくても盛り上げることができる」と実感した韓国コンテンツは、ここから「脱マスメディア」を探り始めました。
ちょうど2010年代は、YouTubeや各種SNSの普及が加速した時期でもあったため、タイミングも後押しをしたと思います。

韓国のコンテンツクリエイターたちはこうしたツールをうまく使いこなし、世界への発信をダイレクトに行うようになりました。SNSであれば、相手国のテレビ局や提携先にそれほど気を使わなくても済みますし、政治的なリスクを極力避けることができます。リリース時期や時差を気にせず、世界に同時発信することができるのも大きなメリットでした。
このようなメリットをいち早く経験した韓国のコンテンツクリエイターたちは、2010年代の半ばから積極的にデジタルコンテンツ作りに取り組みます。そして結果としてYouTube再生回数が1億回を突破するミュージックビデオを何度も世に送り出したBTSやBLACKPINKに、Netflixで世界を熱狂させた「イカゲーム」などがあるのです。
(カン ハンナ : 国際社会文化学者、タレント、歌人、株式会社Beauty Thinker CEO)
07/02 19:00
東洋経済オンライン
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