40歳にモノづくり漫画で花開いた男が掴んだ天職 – Au Webポータル


見ル野栄司さんは前職が理工系エンジニアという異色の経歴を持つ漫画家だ。
2010年に発売されベストセラーになった『シブすぎ技術に男泣き!』(中経出版)では、日本のモノづくりを支える男たちを取材して大いに話題になった。
技術者として生きてきた見ル野さんが、どのような道をたどり漫画家になったのか? 話を聞いた。
見ル野さんの出身は静岡県の島田市。大井川鉄道の走る、大井川のほとりだ。
自宅は田舎の住宅街にあり、いつも遊びにいく裏山も300メートル級の立派な山だった。
ちなみに一風変わった見ル野という名字は本名で、そもそも埼玉発祥だという。見ル野さんの祖父は医師で、静岡県島田市に移転して開業した。見ル野さんのお父さんは生まれた時から、島田市で育っている。
「子供の頃は毎日山や川で遊んでましたね。学校帰りに山に登ったり、自転車で川に遊びにいったり。悪ガキでした。不良ってわけでもないんですけど、学級会では
『見ル野くんに顔に砂をかけられました!!』
『傘のグリップで股間をギュッとされました!!』
とかよく吊るし上げにされたりしてました」

見ル野さんが中学の時に「ファミリーベーシック」という玩具商品が発売された。
ファミリーベーシックとは、ファミコン本体にロムカセットとキーボードを接続すると、BASICのゲームプログラムを自作することができるようになるゲーム機周辺機器だ。
「お年玉で買って、それで夢中でプログラムを打ってゲームを作って遊んでましたね。コンピューターのプログラミングとの出会いはそれが初めてですね。
あとは、自転車をゴミ置き場から拾ってきて、改造して乗ったり、その自転車で通学したりしてました」
学校では、算数が得意で、国語が苦手だった。その傾向は進学しても変わらなかった。高校では、数学と体育と美術だけがずば抜けて成績が良く、他は赤点だった。
「美術は得意だったんだけど、あんまりやる気はなかったんですよね。小学校の時に漫画を描いて、『週刊少年ジャンプ』に送ったことがあったんですよ。『キン肉マン』に憧れて。最初は友達2人で描いてたんですけど、〆切ギリギリで友達はいなくなっちゃって。結局、1人で描き終えて応募したんですけど、集英社からはなんの音沙汰もなかったですね」
友達同士で鉛筆漫画を描いて、それを綴じて漫画雑誌も作っていた。
「みんなで描いて、30ページ以上の本になっていたと思います。それで教室の本棚に置いていたんですよ。そうしたら違うクラスの先生が見つけて廃棄処分しちゃったんですよ!! ひどい話ですよね。さすが昭和です(笑)」
中学の頃までは漫画を描いていた。
当時流行っていた『バリバリ伝説』(講談社)に憧れて、バイクレース漫画を描いた。
「ただ高校に入ると漫画は描かなくなりましたね。代わりに音楽バンドをはじめました。みんなはザ・ブルーハーツとか日本のバンドのコピーをしてましたけど、俺の場合は友達の影響を受けて洋楽のスラッシュメタルやハードロックをやってましたね。いかにギターを速く弾くかっていうのに命をかけて……。絶対モテないタイプの人でした(笑)」
機械や電気については得意だったし、ギターをいじったりすることもできた。
それで高校卒業後は日本工学院専門学校のメカトロニクス科に進んだ。
「入学したはいいんですけど蒲田で一人暮らし。毎日パチスロに明け暮れるというダメな日々になってしまいました。
パチスロ以外はバイトしてましたね。製パン会社とか寿司屋の配達とか、とにかく時給が高いのを。スーパーカブで岡持ちを片手に持って環八(東京都道311号環状八号線)を時速60キロで飛ばしてました。今考えたら、めちゃくちゃ危ないですよね」
専門学校を卒業して20歳で町工場に就職した。川崎市の山の上にある半導体製造装置を作る工場だった。
「1台2000万円とかするロボットを図面通り組み立てるのが仕事でした。人が足りないからみんなで寄ってたかって組み立てるんですよ」
とにかくできることはなんでもやる現場だった。組み立てを覚えたら、CAD(コンピューターで設計するツール)で設計したりもした。
「会社は山の中にあって、朝から晩まで働くわけです。移動はスクーターだからお酒を飲みに行くこともできないし。
だから久しぶりに漫画描いてみることにしたんですね。実は就職前に決めたんですけど。
『漫画と町工場、二刀流でいこう!!』って。
もしプロになれなくても、趣味で漫画描き続けていくのもいいかなって」
会社でスキルアップしていくと、出張に出されるようになった。
日本中を飛び回り、壊れた機械を直したり、改造したりした。
「わざわざ行ったら、電源が抜けてただけだった、なんて漫画みたいなこともありました。それで一緒に行った先輩とお酒飲んで。出張が好きになりましたね。岩手とか北海道とか、良かったな。
それで今も、漫画のために全国取材して飛び回るのが楽しいんですよ」
20歳で就職した見ル野さんだったが、20歳から出版社へ漫画の持ち込みも始めた。
「普通に働いてたら定年退職まで安定かもしれないけど、もうちょっと冒険したいなって思ったんですね。
とにかく漫画を描いて、いろんな雑誌に持ち込みましたね。『ヤングマガジン』、『ビッグコミックスピリッツ』、『ビジネスジャンプ』……。持ち込みの回数は、10年間で100回は超えてると思います」
その頃は、吉田戦車さん、相原コージさんなど、ショートのギャグ漫画の人気が高かった。だから見ル野さんもギャグ漫画を描いた。
「全滅でしたね。門前払いでした。レベルが低かったんだと思います。
22歳の時に某雑誌に応募した作品が優秀賞を取ったんですけど、賞の結果が載った号を最後に廃刊になってしまって。漫画家としては成功どころか、デビューもできませんでした」
漫画家として苦戦している間に、働いていた会社をやめてゲーム会社に転職した。
「アミューズメントゲーム機を作る会社に入りました。プリントシール機とか、ポーカーゲーム機とか、そういうのを開発する会社ですね。Tシャツに自分の顔を印刷する機械を開発したんですけど、発売直前に会社が倒産しちゃったんです」
借金取りがやってきて、会社の周りを取り囲んだ。見ル野さんたち従業員に罪はない。しかし、
「なるべくなら会わないほうがいいから、隠れて逃げて」
と指示された。
「それで夜中に借金取りに見つからないように、自分の工具箱を持って逃げました。変な経験でしたね。
それからは機械系のフリーランスになりました。派遣会社に登録して、派遣された先で仕事をする感じです」
大手メカトロニクス系の会社に派遣されて、1台10億円の機械を作ることもあった。
「大手企業はとにかく厳しいんですよ。タバコは吸っちゃダメだし、休憩時間も無駄口をきいたらいけない。ただただ図面通りむちゃくちゃ難しい機械を黙々と作るんです。
朝5時に家を出て、家に帰ってくるのは深夜の0時でした。時給はよかったので、かなり稼いではいました。
でも、こりゃもう漫画は描けないな……って諦めていたら、知り合いの漫画家から電話がありました」
『ウンナンのホントコ!』というテレビ番組のオーディションを受けないか? という誘いだった。
5人の漫画家志望者がトキワ荘で漫画作品を発表して、3週連続トップを取れば『ビッグコミックスピリッツ』に掲載できるという企画だった。
「二つ返事で『やる』って言って、会社をやめました。それで番組のオーディションを受けました。まあ割と金たまってたんで、どうにかなるかな? 失敗したらまた町工場に勤めればいいやって思ってました」
オーディションはなんと100倍の難関だったが、見ル野さんは受かった。
「なぜか受かってテレビに出ましたけど、投票で最下位ですぐに首になりました。
で、結局また町工場で働きました。クリーニング屋さんのシャツを板にはめて乾燥させる装置を作ったり、納品したりしてましたね。
漫画の応募も再びしていて、スピリッツ努力賞をやっと取れましたが、連載には程遠かったですね。
そんなころ、『ウンナンのホントコ!』の打ち上げがあって、顔を出したんです」
ちょうど『月刊IKKI』(小学館)が創刊されるタイミングで、打ち上げに顔を出していた副編集長から
「今度雑誌を立ち上げるから見ル野君、連載してください」
と言われた。
「持ち込みでも、応募でも、散々無理だったのに、鶴の一声で連載がもらえました。
ただ、2カ月に1回6ページという、非常にゆっくりなペースの連載でした。
『東京ソレノイド』は、2人組のバンドマンが『バンドやろうぜ!!』つって、ナニやるわけでもなく暴れてるだけのギャグ漫画なんですけど、気合を入れて500枚くらいネーム(下描きの下描き)を描きましたね。
それが29歳か30歳の頃で、やっとデビューできました」
その後、他誌にも持ち込んで読み切りは載ったが、それでもなかなか連載を取ることはできなかった。バイトと漫画の二刀流で食いつないでいった。
デビュー作『東京ソレノイド』が連載終了して『東京フローチャート』という4コマ漫画が隔月4ページで始まった。
今まで書き溜めてきた漫画を持ち込んで
初の単行本『スナック鳥男 見ル野栄司短編集』(コアマガジン)として発売した時には、34歳になっていた。
「そんな折に、エンジニア向け情報サイト『Tech総研』から『インタビュー漫画を連載しないか?』という話が来ました」
製麺機、石油の検層機、超音波発生装置、などさまざまなモノを作る人たちをインタビューして、その姿をコミックにした。
出会うエンジニア、職人さんも心に残る人が多かったという。
「今の時代は職人いなくてもいいって言われがちなんですけど、でもやっぱりいるんですよ。例えば某大企業でも、いいレンズを作る職人さんがいて、そのレンズがないと商品がうまく作れない。完全に手作業で、ロボット化とかはまだ当分無理なんですよ。
そんな貴重な人材がたくさんいます。
最初は『漫画家だからわからないだろ?』って舐めた感じで対応されることが多いんですけど、話しているうちに『あれ? この人、話わかるね』って感心されることが多かったですね。基礎的なことはいちいち解説しなくてもいいですから、説明も楽ですしね。
二刀流でやってきたのが初めて活きた仕事でした。
ただ連載時は、今までの漫画に比べたら話題になりましたけど、それでも全然でしたね。相変わらず売れない漫画の代名詞でした(笑)。ギリギリの生活でした」
この連載を8年間続け、単行本にできないか中経出版に持ち込んだ。
出版社内の会議では、意見は「売れる」「売れない」の真っ二つに割れた。
「出版社の営業の方が、
『こうやって真っ二つに割れる本は売れるから出版すべきだ』
って言ってくれて、2010年に『シブすぎ技術に男泣き!』が発売されることになりました。それで出版されたら、すごく読まれました。それが40歳の時でした。40歳がターニングポイントになって今までできなかった仕事がいろいろできるようになりました」
『シブすぎ技術に男泣き!』がベストセラーになると、講演会の依頼が来た。
取材した会社の漫画をプロジェクターで映しながら、数百人の前で解説した。

初のストーリー漫画『ロッカク』(KADOKAWA)では、町工場の新入社員が技能五輪にチャレンジする漫画を描いた。
原作を担当した『グッドファザーボード』(講談社)は、自動運転の開発に挑む天才エンジニアが、妻が失踪した後に、初めて息子と向き合うホームコメディだ。
「ただ、『シブすぎ技術に男泣き!』以降ガツンと売れてる作品はまだできてないですね。ただそれでも現在も雑誌で原作をやる話はきていて、ちょうど今『デスゲーム』の開発者の漫画の原作を書いています。2023年に連載スタートする予定です」
40歳でブレイクして以来は漫画家専業で食べていけるようになった見ル野さんだが、今でもエンジニアとして、モノづくりをしたいという気持ちはあるという。
「実は家に電気回路を作る設備とか、フライス盤とかハンダゴテとか、全部あるんですよ。ずっとエンジニアが本職で、趣味が漫画家でしたけど、今は逆転して趣味がエンジニアになってます。いつか、漫画家用の椅子を作りたいと思ってるんですよね。作業用の椅子もそうですけど、アイデアが出る椅子も。ロッキングチェアってあるじゃないですか? アレって、アイデアが出るためにあるんじゃないかと思ってて……。今までにないロッキングチェアが作れないかな? と思ってます」

昨今、日本の技術力が落ちていることが指摘されることが多い。ただ、見ル野さんは絶望していないという。
「日本は機械加工や家電は外国に負けた、って言われてますけど、実は機械加工機、マザーマシンはまだまだ結構強いんですよ。精密な部品を作る機械などですね。それってわかりづらいから、メディアはあまり取り上げないですけど。あとは、半導体製造装置もまだ結構強いです。半導体を作ってるのは外国かもしれないけど、それを作れる機械を作っているのは日本だったりします。
若い理系の人って、プログラマーになる人が多いんですよ。もちろんその需要も増えているし気持ちはわかるんですが、機械系とか電気系に行く人って少ないんですよね。そちらを目指してもいい仕事ができると思うんですよ」
何らかの仕事を持っていて、それをやめて、漫画家になった人は多いが、見ル野さんほど前職を活かしている漫画家は珍しいと思う。
『シブすぎ技術に男泣き!』はまさに見ル野さんならではの漫画だった。これからも、見ル野さんしか描けない漫画を期待したい。

(村田 らむ : ライター、漫画家、カメラマン、イラストレーター)
01/11 10:00
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