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2022 . 10 . 5 ( 水 )
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地域でそれぞれ確かな存在感を示しながら、今は姿を消した「旧名所」があります。
古くから都市部として発展し、多くの人や物を集めてきた阪神地域はその宝庫です。人気だった娯楽施設や、生活の中のランドマークに加え、先の戦争の記憶も…。
その面影と時代の空気を探して歩きました。(2020年8月の連載から=肩書、年齢は当時)
■ダンス・パレス 紳士集った社交ダンス 戦争の影、取り締まり対象に
昭和初期、開通したばかりの阪神国道(現・国道2号)沿線。田園風景に工場がぽつぽつと建つ中に、ダンスホール4カ所が開業した。シャンデリアの下で男女が身を寄せ合い、ジャズやタンゴの演奏に合わせてステップを踏む。そんなきらびやかでモダンな世界に彩られ、戦前の工都尼崎は全国で随一の社交ダンスの聖地だった。
関西大学社会学部の永井良和教授(大衆文化論)によると、きっかけは1927(昭和2)年、大阪府がホールの営業を禁止したことだという。
30年までに杭瀬から現在の阪神尼崎駅の間にホールの出店が相次ぎ、大阪からタクシーや送迎車で通う紳士たちで大繁盛した。社交ダンス文化はすぐに尼崎の街に根を下ろし、「ダンスファン」「ダンス時代」の有名ダンス雑誌2誌が市内で発行された。関東大震災の影響もあり、首都圏の実力バンドやダンス関係者らも阪神間へ拠点を移した。
市内で最も豪華だと言われたホールが、30年に開業した「ダンス・パレス」。阪神大物駅北東約500メートルの辺り。約76坪のメインフロアでは、スーツに革靴を着こなした紳士たちがお気に入りのダンサーを指名し、生バンドの演奏に身をゆだねて踊った。最盛期には約70人のダンサーが所属し、小学校教員の月収が70円程度だった当時、トップダンサーの月収は約300円もあったとされる。
ある男性が旧小田村の郷土史誌の中で「中央のシャンデリアは回転式で、星が飛び交う夢の天国でした」と述懐している。クリスマスには仮装舞踏会があり、オールナイトで踊りふけったという。
当時のホールでは酒の提供はなく、バンドが演奏する最新の音楽と社交ダンスを純粋に楽しんだ。客とダンサーが心中したり、ダンサーの取り合いで客同士がケンカしたりと、一部でゴシップもあったという。
だが、尼崎市立文化財収蔵庫の学芸員、桃谷和則さん(58)は「戦後のキャバレーと混同されるかもしれないが、当時のホールは紳士が集う社交の場。文化的に成熟した空間が尼崎にあった」と力説する。
戦争の影とともに、国の取り締まりが厳しくなり、4カ所とも40年までに閉鎖した。ダンス・パレスの建物は映画館に転用された。閉館に際した“お別れ会”の写真が残っている。ダンサーたちは肩を落とし、うつむき加減に創業者の平井正夫氏の話に耳を傾けている。
平井氏の孫の加藤のり子さん(大阪府豊中市)は「社交文化をリードしているという自負があったと思う。きっとみんな悔しかったはず」と、祖父やダンサーたちの無念を推し量る。
工業や庶民の町といったイメージが先行する尼崎。ダンス・パレスがあった辺りには、スーパーや会社事務所などが並び、面する国道2号にはトラックや乗用車がせわしなく行き交う。そこに“ダンス王国”の面影は全くない。
それでも永井教授は言う。「ダンスホールについての資料は少なく、阪神間モダニズムを語る上でも抜け落ちてきた部分。阪神間の文化を理解する上で、尼崎に根付いていたダンス文化は欠かせない。再評価してもらえるよう研究を続けたい」
10/04~10/04
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