歌手 東海林太郎 × 作曲家 古関裕而 音楽人生変えた1曲「春の哀歌」 – 福島民報

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2022/10/06 16:53
 昭和の人気歌手東海林太郎と、福島市出身の作曲家古関裕而は、共に戦前戦後の歌謡界を彩った。2人のつながりについて、古関裕而の研究者として知られる日本大商学部教授の刑部芳則さんが寄稿した。
 1972(昭和47年)10月4日、昭和初期から活躍した歌手の東海林太郎が死去した。2022(令和4年)は東海林の没後50周年に当たる。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動の姿勢が彼のトレードマークである。秋田県出身の東海林と福島県出身の作曲家古関裕而は同じ東北県人であるが、専属のレコード会社が違ったため、2人で仕事をする機会はほとんどなかった。しかし、両者が大衆に評価されて大歌手と大作曲家になる直前に作られた奇跡の1曲が存在する。それがあまり知られていない1934年1月発売の「春の哀歌(エレジー)」である。
 古関は1931年のデビュー曲「福島行進曲」以来、ヒット曲に恵まれず、1933年にはコロムビアから専属契約解除の宣告を受ける。妻金子がコロムビアへ懇願したこともあり、必ずヒット曲を生むとの約束で1934年からの契約更新が認められた。「背水の陣」を敷かれた古関が、従来のクラシックの歌曲のような路線から、大衆が好む歌謡曲調の路線へと変更して作曲したのが「春の哀歌」であった。この路線変更により、古関の曲は売れるようになる。
 東海林は「春の哀歌」を荘司史郎という芸名で歌っている。彼もまだヒット曲がなく、レコード各社で名前を変えてレコード吹き込みをしていた。同じ頃にポリドールから発売された「赤城の子守唄」が大ヒットし、東海林は同社の歌手としてスター街道を進むこととなる。しかし、後年に東海林はヒットした股旅物や日本調よりも、洋楽調の作品の方が好きだと言っている。歴史にもしもはないが、「春の哀歌」の方が大ヒットしていたら、その望みとともに古関とのコンビも続いただろう。ただし、東海林がスター歌手になれたかはわからない。
 古関は1980年2月のインタビューで「春の哀歌」を振り返り、東海林は「うまい歌手とは思いません」としながらも、苦労して歌手になったことに感心している。「春の哀歌」は東海林と古関のその後の音楽人生を変えた1曲である。31日まで福島市古関裕而記念館で楽譜などが展示されている。19日には筆者が監修・解説・選曲した「東海林太郎永遠の歌声」(コロムビア編とテイチク編の2作)が発売されるが、コロムビア編には「春の哀歌」を収録した。この機会に隠れた名曲を堪能していただければ、天国の東海林と古関も喜ぶのではないか。
おさかべ・よしのり 1977年、東京都生まれ。中央大大学院博士後期課程修了。博士(史学)。専門は日本近代史。東海林太郎音楽館学術顧問。NHK連続テレビ小説「エール」で風俗考証を担当した。著作は「古関裕而」(中公新書)、「セーラー服の誕生」(法政大学出版局)など多数。

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