「アレがなければ3カ月で僕は死んでました」…「こりゃ、お手上げ」状態のピストン西沢を、24年間続く長寿ラジオ番組へと導いた“ハイテク機器”とは? – Au Webポータル

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 惜しまれつつ24年半の歴史に幕を閉じた人気ラジオ番組『GROOVE LINE』。パーソナリティを務め、リスナーから熱い支持を集めたピストン西沢が振り返る人気番組の軌跡――。(全2回の1回目/続きを読む)
【画像】人気ラジオ番組『GROOVE LINE』で人気を集めたピストン西沢の写真を一気に見る

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――去る9月29日に終了した『GROOVE LINE』。最終回の冒頭、「(番組終了の話題を)スポーツ紙は取り上げてくれた。文春は?」という発言をされていたので、遅ればせながらお話をうかがいに来ました。
西沢 言ったら来てもらえるんだ? 何でも言っておくもんだね。
――それにしても、ものすごい最終回でした。番組終了の直前、ピストンさんがスタジオからエスケープして、最後はリスナーへの感謝を語った録音メッセージが流れるという、多くのリスナーを騒然とさせたエンディングでしたが、あのサプライズは、当日スタジオ入りしてから思い付かれたそうですが。
西沢 そう。当日の番組開始の20分くらい前に思い付いて。(J-WAVE本社の)非常階段で、こっそりスマホで録音をしてね。当日のディレクターの中から2人だけ呼んで、「俺、『トイレ行く』って言って消えるから、最後に時間を計算してこれ流せ」って言って。あいつらパニックになってね(笑)。
――なぜそうしようと思ったんですか?
西沢 だって当日スタジオに来たら、たくさんの花が置かれていてね。僕としては別に惜しまれつつ辞めるというわけでもなかったし、ただ自分が楽しいと思うことをずっと好きにやってきただけだったから、「ありがとう」と言われる筋合いも無いなあと思って。
 じゃあ、こういう風に終わろうかな? と考えたら、その場であの演出を思い付いたのでやっちゃっただけ。
――実際、ものすごい反響でしたね。多くのニュースにも取り上げられました。
西沢 番組終了をより惜しんでもらえたし、僕としては成功でした。一つだけ誤算だったのは、ジョン・カビラさんとかクリス・ペプラーさんとかLiLiCoとかサッシャとか、お世話になった先輩がたや友人や後輩のみんながサプライズでたくさんスタジオに来てくれちゃったこと。
 車のなかでオンエアを聴きながら「マズいなあ」と思ったけど、もう逃げちゃったんだからしょうがない(笑)。僕の望みとしては、あの終わり方が生放送終了時のトレンドとなって、次の番組改編期に最終回を迎える人が片っ端からいなくなったら面白いなあって。ぜひ文春オンラインで広めてください。
――『GROOVE LINE』は1998年4月からおよそ24年半続いた長寿番組でしたが、そもそもピストンさんはラジオDJではなく、音楽制作やクラブで音楽をかけるほうのDJが本業で。
西沢 そう。音楽的な知識を買われて制作の仕事からJ-WAVEに入ったのが89年。当時はラジオについての知識なんて皆無だし、そもそも僕自身ラジオを聴いて育ってこなかった。無論、いまみたいなしゃべりも最初は全く出来なくて。
 ついこの間までディレクションをやっていたやつが、突然、「お前、面白いからしゃべってみろよ?」と言われて、夕方6時からの『J’s Calling』というリクエスト番組を担当したのが93年だったかな。
 だって当時のJ-WAVEはすでに英語が話せる国際的な方々が丁寧な言葉使いで洋楽を紹介しながら文化的な話をする、というハイソサエティかつアップタウンな放送局の色が出来上がっていて。ただの素人な上に亜流なんだから「こりゃ、お手上げだ」と思った。
――そうしたJ-WAVEにおいて、『GROOVE LINE』は昭和のAMラジオの深夜放送的に、リスナーと大喜利的なお題でやり取りを交わしたり、ナンセンスなトークや下ネタまで何でもアリの番組になりました。どのように活路を見出したのでしょうか?
西沢 ある時、その頃は最先端のハイテク機器だった留守番電話に着目してね。局内に留守電を一つ設置して、番号をリスナーに伝えて、「あなたの知らない曲を鼻歌で吹き込んで」と呼び掛けて、それをリスナーのみんなで探そうという企画をやってみたら、それが上手くいって。
――いまのスマホのアプリで言うとShazamのような企画ですね。
西沢 僕自身の話は拙くても、鼻歌に振れば良いから急に気が楽になって、そこから徐々にしゃべれるようになった。あれが無かったらしゃべり手としての僕は3カ月で死んでいたと思う。
 それでも、当時の制作の一番偉い人からはずっと詰められていましたね。「お前、あんなこと言ったな!」とか「お前、これ、どうするつもりだ?」とか(笑)。毎日「すみません」と謝っては放送後にレポートを提出していた。しかも強制されていたわけじゃなく、毎回、自主的に書いていた。
――案外、マジメだったんですね。
西沢 そりゃそうだよ。拙いとはいえ、仮にもギャラをもらってしゃべっていたんだから。あとは制作経験者としての「そうしたほうがいいかもな」という自主的な配慮と工夫でもあった。
 そのうち、98年、当時の渋谷HMVにサテライトスタジオが出来て。その偉い人から「お前、HMVスタジオから公開生放送をやらないか? あまり他の人が行きたがらないんだよ」と誘われて、「行きます! 行かせてください!!」と即答した。番組を続ける保険と免罪符が得られると思ったし、本社のスタジオじゃない分、しゃべりの自由度も上がる。「いろんなことが試せるぞ」と。
――2000年から2010年までは現在ナレーター/ナビゲーターとしてご活躍の秀島史香さんとのツインナビゲート体制に。ピストンさんがスタジオの一般客や秀島さんをいじり、そのピストンさんに秀島さんがツッコミを入れ、さらにお二人で掛け合いを展開するというスタイルも番組の名物となりました。
西沢 スタジオで秀島さんと向かい合っていても、僕は常に目の前のお客さんとしゃべっていた。最初の頃はちょっと批判もあったんですよ。でも、そのほうがパーソナリティ同士の会話を聴かせるよりもはるかに面白いと思ったし、リスナーも自分に話しかけられているような感覚を覚えてくれた。
 するとリスナーとの質の高いコミュニケーションが生まれて、レーティング(聴取率)がどんどん上がった。数字という明確なエビデンスが見えてくると、僕も自分のスタイルであり、しゃべる目的であり、自分のなかでの理想的なラジオの在り方みたいなものがどんどんと明確になっていった。
 秀島さんの人気が出てレーティングが爆発して、番組の規模を拡大し続けたのが2004、5年あたりまでだったかな。最もリスナーからFAXやメールが来ていた頃は、一回の放送で10,000通は来ていました。出力紙を整理していたAD(=アシスタントディレクター)の指紋が擦れて無くなってたからね。
――すごい数ですね。
西沢 僕にとってのラジオとはリスナーとのフレンドシップであり、双方向のコミュニケーション。こちらからの投げ掛けにレスポンスがあって、それをさらに膨らませていくことで大きくしていくんだよ。
 Twitterのトピックが広がる構造もまさにラジオの手法でしょ? どこか友達のようで、一人で聴いていても寂しくないもの。たとえ何十万人が聴いてくれたとしても、結局、コミュニケーションとしては常に1対1。率直にそこがラジオの一番の魅力だと感じたから、それを『GROOVE LINE』で毎日やっていただけです。
――『GROOVE LINE』終了後、他局から「うちで番組をやりませんか?」というオファーはありましたか?
西沢 全くないよ。僕自身、いまは自分のYouTubeチャンネルもあるし、よほどの事がないと成立し辛いとも思うし。
――と、いうと?
西沢 『GROOVE LINE』という番組が、あのスタイルで長年続いた最も大きな要素は、番組の責任者そのものが僕だったから。そもそも番組というのは、放送局の下に制作会社が入り、局側のプロデューサーと制作会社がキャスティングを行い、スタッフチームを組んで番組作りを進めるというのが基本的な構造です。
 でも、『GROOVE LINE』の場合は、制作会社役も、出演者役も、キャスティングする権利も、制作費の把握も全て僕が担っていたの。さっきもお話しした通り、僕は89年からJ-WAVEで仕事していましたから、局側も長年、「まあ西沢だったらあいつ一人にやらせときゃいいよ」という感じだった。そのおかげで、だいぶ自由に動ける身分だったんですよ。
――つまり、局内における独立国家みたいなスタンスだった?
西沢 そう。僕はモータースポーツが好きなんですけど、F1のミハエル・シューマッハは、フェラーリが優勝できるまでに、チーム作りと自由な環境作りに5年かけてチャンピオンになった。僕も同じで、約10年をかけて環境を作って、それを活かして好きなことをやってきたんです。
 鈴木亜久里さんだってF1チーム作った時、「もっとレースが見られると思っていたのに、レース中もずっと会議なんだぜ」とぼやいていたし(笑)。そんなチーム作りを新たな環境でまた一からやるなんてまず難しいし、そこに気力も興味も湧かないし。
――なるほど。
西沢 もっと言うと、僕のなかには、出演者としてワーッとしゃべるピストン西沢がいて、さらにそれをリアルタイムで聴いてどうまとめようかと判断するディレクターとしてのピストン西沢がいて、時には営業として自分でクライアントを取ってきて、スポンサーに配慮するプロデューサーとしてのピストン西沢もいる。
 そうしたいろんなピストン西沢が、0.00001秒おきにバッと入れ替わりながら動いていたんです。だから、一見、自由でバカバカしかったようでも、実は24年間、大きなトラブルはほとんど無かった。
 言いたい放題にしゃべっているようでも、制作者としての僕が「これ以上はみ出したらダメだ」という線引きを常に持っていたからです。僕は別にはみ出て目立ちたかったわけじゃないし、人に迷惑を掛けるのも嫌でしたから。
――だからこそ、番組終了の発表に驚いたリスナーも決して少なくなかったと思いますが。
西沢 実際、番組終了頃のまでレーティングも、番組としての予算の収支のバランスも決して悪くはありませんでした。要するにやるだけのことはやっていたので、それでも終わるなら仕方ないし、よほど辞めさせたいんだな(笑)と思いました。
 そもそも無理やり居座っていたので、局の方針と僕自身がやりたいことのバランスを擦り合わせながらやってきたんですけど、徐々に乖離していっちゃったということでは、長くやりすぎちゃったんですね。
 どんな組織でもよくある話で、要は自由に長くやり過ぎちゃったんですよ。ただ僕個人としては、J-WAVEに限らず、ラジオの行く末というか、ラジオDJの現状については自分なりに思うところも幾つかあって。
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 マルチな頭脳で1対1のコミュニケーションにこだわる異色のFM番組を24年半にわたって続けてきたピストン西沢。そんな彼が危惧するラジオの現状とは……?(#2へ続く)
ピストン西沢のツイッターYouToubeチャンネルはこちらからお楽しみ頂けます。
「めちゃくちゃヤるかもしれませんね。股間にブリーフを…」ピストン西沢がもし若いYouTuberだったらヤってみたい“誰も傷つけない笑い” へ続く
(内田 正樹)
12/03 06:10
文春オンライン
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