【話の肖像画】作詞家・松本隆<2> 父が買ってくれた「デンチク」が原点 – 産経ニュース

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《昭和24年、東京で生まれた。慶応大学在学中に細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんと結成した伝説のバンド「はっぴいえんど」ではドラムのほか作詞も担当。バンドが解散した47年から、職業作詞家としてのスタートを切った》

生まれも育ちも東京都港区の南青山です。今はビルが立ち並んでいますが、当時は空き地が多かったですね。通っていたのは青南小学校。今もある、割と名門の学校だったんですよ。
小学生時代の僕は、体が大きくて、背の高さはクラスで常に1番か2番。おとなしい子供だったと思うんですが、何をしても目立ってしまうので、よく先生に怒られていました。
よく遊んでいたのは、表参道と国道246号の角のあたりをちょっと裏に入ったところにあった大きなお寺。境内で友達とよく野球をしていました。青山墓地でもよく遊びましたね。当時、「月光仮面」という人気テレビ番組があって、その撮影を青山墓地でやっているという噂があったんです。それを聞いて、のぞきにいったんですが、一度も見たことはありません。いつも間に合わなかったんですね。仕方なく月光仮面ごっこをやっていました。

《音楽に触れるようになったのは小学5年のとき。大蔵省(当時)に勤めていた父親が電気蓄音機を買ってくれたのがきっかけだった。電気蓄音機は戦後あたりから国産品も発売されるようになったが、当時は非常に高価だった。現在はレトロ商品としてコレクションする人も多い》

僕は「デンチク」と呼んでいました。大きな箱があって、上の方にレコードプレーヤーが乗っかっていて、下にアンプとスピーカーがついていました。父の同僚にオーディオマニアの人がいて、その人が手作りしたのを買ってきてくれたんです。うれしかったですよ。
でも、レコードを買うお金がなくて。当時、レコードは高くて、小学生の小遣い程度ではなかなか買えませんでした。ソノラマシートという、雑誌のおまけについているような薄いビニールに溝がついている安価なものなら手に入ったので、映画音楽なんかをよく聴いていました。
最初に買ったシングルレコードは、今でもよく覚えています。ペギー・マーチというアメリカの人気女性歌手の「I Will Follow Him」。中学1年のころ、小遣いをためて買いました。このころから洋楽をよく聴くようになりました。
当時、日本では、歌謡曲がはやっていて、橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんの「御三家」が大人気だったんですが、僕はどちらかというと洋楽の方が好きでした。
聴くだけでなく自分が演奏をするようになったのは、当時の多くの若者がそうだったように、ベンチャーズの影響でした。

《「ザ・ベンチャーズ」は、代表曲に「ダイアモンド・ヘッド」「パイプライン」「キャラバン」などがある米国のインストゥルメンタル・ロック・バンドで、昭和37年に初来日した。若者たちの間で空前のエレキ・ブームが訪れ、日本のポップスやロックに大きな影響を与えたとされる。また、ベンチャーズ来日の後、英国リバプール出身のロックバンド「ザ・ビートルズ」も41年に来日し、こちらも大ブームに。ベンチャーズと人気を二分した》

若者たちはこぞってエレキギターを買って、ベンチャーズの曲を弾いていました。
その後、もうひとつ大きな波が来ました。ビートルズがデビューして、東京五輪(39年)が終わった後、高校2年のときに来日したんです。僕は、そのころにはもうドラムをたたいていました。(聞き手 古野英明)
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