【話の肖像画】作詞家・松本隆<3> ドラムの全国大会で優勝、テレビ出演へ – 産経ニュース

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《昭和30年代から40年代にかけ、日本の若者の多くがザ・ベンチャーズ(米国)、ザ・ビートルズ(英国)の影響を受け、空前のバンドブームが起こる中、すでに洋楽に興味を持っていた松本少年も友人らとともにバンドを結成、ドラムをたたくようになった。大学生になると、本格的に活動を始めることになる》
高校1年のとき、親にドラムを買ってもらいました。意外とうまくなるのは早かったんですよ。高校2年のときには、全国大会で優勝しました。出場者がひたすらドラムをたたくというドラム合戦みたいな大会です。優勝のご褒美として、朝のテレビ番組に出させてもらって、ドラムのソロを披露しました。
当日、高校の担任の先生に電話をして「きょうはテレビに出るので遅刻します」と言って許可をもらい、1人でテレビ局に行きました。ドラムの単独演奏というのは、けっこうやりにくかったですね。ボーカルもギターもなしで、ドラムの前に座って1人でひたすらドラムをたたきまくるんですから。でも、なんか映画「嵐を呼ぶ男」の中に出てくる、石原裕次郎さん演じるドラマーになった気分になって、気持ちよかったですね。
後になって、当時の番組関係者に、そのときのビデオは残っていないかと聞いたら、「ない」といわれました。えー、ないのかと落胆しましたが、それも仕方のない話です。あのころはまだビデオテープが非常に高価で、テレビ局でも同じテープを上書きして2度、3度と使っていましたから。それが後に貴重な映像になるとは当時の誰一人として思ってもいなかったでしょうから、残っていなくて当然なんです。もし取ってあったら、「お宝映像」になったのにね、残念です(笑)。
《高校時代は、まだ音楽は趣味の範疇(はんちゅう)だったが、この全国大会優勝とテレビ出演を契機にますます音楽にのめり込んでいく。そして慶応大に入学後、アルバイトではあったが、ギャラをもらって演奏するようになった》
地下鉄表参道駅近くの東京・南青山に今、スパイラルホールが入っているビルがあるじゃないですか。その裏辺りのビルの地下に昔、ディスコティックがあったんですよ。生バンドが入っていて、朝まで踊れるという当時最先端のディスコでした。未成年でしたが、当時はまだ取り締まる法律もなく、朝までアルバイトで最新の洋楽を演奏していました。
ギャラなんてすずめの涙。浅草に住んでいるバイト仲間がいたんですが、仕事が終わって帰ろうとしても当然電車はまだ走っていなくて、仕方なくタクシーで帰るんですが、そうすると赤字になってしまう。そんな金額でした。僕は幸いというか、家が近所だったので歩いて帰ることができたんですが。
《このディスコでのアルバイト仲間の一人に、後に「はっぴいえんど」をともに結成し、ボーカルとベースを担当することになる細野晴臣さんもいた。細野さんは「はっぴいえんど」解散後に、坂本龍一さん、高橋幸宏さんらと結成した「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」やソロ活動などでも人気を博しているミュージシャンである》
僕は、高校生のときにつくった「バーンズ」というアマチュアバンドで活動していたんですが、そのうち、ベース担当が公認会計士になるため勉強に専念するといって、やめてしまい空席ができました。
欠員を埋めなきゃと思って、友人に誰かいい人がいないか聞いてみたら、「立教大にベースの天才がいる」と聞きました。それが細野さんでした。さっそく連絡をとって、細野さんに会いました。(聞き手 古野英明)
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