【話の肖像画】作詞家・松本隆〈5〉 「はっぴいえんど」結成 日本語でロックを – iza(イザ!)

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《昭和44年に結成された「エイプリル・フール」は1年足らずで解散。紆余(うよ)曲折を経て、細野晴臣さん、鈴木茂さん、大滝詠一さんのメンバーが集まり、伝説のバンド「はっぴいえんど」が誕生する》

大滝さんを連れてきたのは細野さんでした。当初、メンバーに予定していた小坂忠さん(元エイプリル・フール)が抜けてしまい、僕らは頭を抱えたんですが、細野さんが新バンド結成の話を大滝さんにしたら興味を示したので、リクルートしてきたんです。
さっそく曲作りを始めることになりましたが、「はっぴいえんど」の曲作りのコンセプトについて、僕は「日本語でロックをやろう」と提案しました。
当時の日本のロック界は洋楽のコピーが多く、歌詞も原曲の英語のままで歌っていました。そんな中、「自分たちのオリジナルの詞や曲を作ろう」「詞は日本語でやろうじゃないか」と。細野さんも大滝さんも茂も、僕の考えに賛同してくれ、日本語でロックをやることになりました。
では、どういう詞を書いたらいいのか、ということについては、みんな具体的なアイデアは持っていませんでした。そこで、細野さんが「松本、書いてみろ」と。当時、日本語のロックの歌詞というのは存在していなかったわけですから、ある種、ゼロからの発明ですよね。それを強く主張したんだから、君が書いてみたらいいじゃないかと。いつも本を持ち歩き、暇さえあれば本を読んでいるから書けるだろうとも思ったようです。こうして僕は、「はっぴいえんど」で作詞を担当することになりました。

《細野さんから「こんな詞を書け」と輸入盤のレコードを渡された松本さんは、歌詞を友人に訳してもらい、自分なりに似せて詞を作るところから始めたという。あれこれと模索した結果、都会に暮らす人たちの心象を「ですます調」で描く、という独特のスタイルを確立していった》

同じレコード会社に、遠藤賢司さんとか、高田渡さん、岡林信康さんといった「関西フォーク」と呼ばれていた人たちがいて、「はっぴいえんど」初期のころは、彼らのバックバンドを頼まれ、ツアーで一緒に回っていました。そうしたこともあって彼らの影響を受けた部分もありました。
彼らは「ですます調」で詞を作り、それに曲をつけることにこだわっていたんです。近くで聴いていてとても新鮮でした。それで、「ですます調の詞っておもしろいな」と思ったんです。

《日本語の、しかも「ですます調」のロックの歌詞という斬新なスタイルで、「はっぴいえんど」は一部で熱心な支持を受けるようになっていった。しかしその一方では、「日本語はロックのメロディーに乗らない」と主張し、英米追随だとしても、本物のロック音楽を目指すのであれば、原曲の英語のまま歌うべきである、とこだわる英語派のアーティストらの反発も呼んだ。ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきなのか―。40年代の半ば、両者の間で「日本語ロック論争」が巻き起こる》

当時は「ロックは英語で歌うもの。日本語のロックはあり得ない」と唱える人たちの方が主流派でした。「はっぴいえんど」結成からまだ間もない僕たちは亜流で、無名。勝負にもならないぐらい力の差がありました。
そんな僕たちがやっていることが話題になったわけですから、彼らにしてみれば当然、おもしろくないでしょう。「日本語ロック」は論争となり、テレビや音楽雑誌などを舞台に、公開座談会が開かれるようになりました。(聞き手 古野英明)
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