ベルウッド・レコード・三浦光紀が語る、西岡恭蔵との出会いからはっぴいえんど解散まで – マイナビニュース

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日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年10月の特集は今年で50周年を迎えるベルウッド・レコード。特集にあたり5週間に渡りベルウッド・レコードの創設者・音楽プロデューサーの三浦光紀をゲストに招き50曲を自薦しながら、当時から現在までの話を掘り下げる。パート3では大瀧詠一を中心に西岡恭蔵やあがた森魚とのエピソード、はっぴえんど解散までのベルウッド・レコードの歴史を語る。
田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは大瀧詠一さんの「ウララカ」。今月の前テーマはこの曲です。
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ウララカ / 大瀧詠一
今月2022年10月の特集はベルウッド・レコード50周年。三浦さんに忘れられないアーティストの知ってほしい曲や残したい曲を選んでいただきました。この前テーマ大瀧さんの「ウララカ」も三浦さんの希望による選曲であります。50周年の企画というのをいろいろ発表されておりまして、ライブがあるんですね。
三浦光紀:そうですね、11月11日に中野サンプラザで、意外なゲストが出てきます。
田家:今発表されてるメンバーは小室等さん、六文銭、あがた森魚さん、中川五郎さん、伊藤銀次さん、大塚まさじさん、鈴木慶一+竹川正弘さん、いとうたかおさん、鈴木茂さん。スペシャルゲスト佐野史郎さん、なぎら健壱さん、森山直太朗さん。バンドが高田漣さんのバンド。どんなコンサートになると思いますか。
三浦:僕は売れている人を中心に出すのではなく、今の時代こういう音楽があるべきなんだという観点で集めてくれと。だから、やっぱりフォークソングとかそういう流れの中で中川五郎さんみたいな人は貴重なシンガーだと思うので、日本にこういう貴重なシンガーがいるんだということを伝えたいです。
田家:高田蓮さんはこういうコンサートではかなりいろいろな形でやってますもんね。
三浦:やっぱり蓮さんはすごいですよね。細野さんもやってますけど。楽しみです。
田家:あらためて、ベルウッドで当時三浦さんが関わった、惹かれていた人たちに共通するものは何かあったと思われますか?
三浦:やっぱりクオリティが高くて、それと何らかの形でメッセージ性を持っているアーティストを集めたというか、一緒にやってもらった感じですね。
田家:当時ベルウッドが無かったら、この人が世の中に出ることがなかったんではないかと思ったりする人がいます。
三浦:小室さんもそうですよね。恭蔵さんもそうだし、たぶんあがたさんもそうだと思うし。僕が声をかけなかったらやらなかったけど、どのみち他ではたぶんやってたと思うんですよね。そういう意味ではあのタイミングであのメンバーが集まったっのは、やっぱりすごかったんだなと思います。
田家:今日の1曲目の人たちもベルウッドがなかったらきっと世の中に出てこなかったのではないかと。1972年9月発売、ごまのはえ「留子ちゃんたら」。
留子ちゃんたら / ごまのはえ
田家:伊藤銀次さんのバンドであります。銀次さんは中野サンプラザのステージにも登場されますね。この曲については?
三浦:この曲は大阪にザ・バンドを意識している、なかなかいいバンドがいるっていうのを聞いて、テープを送ってもらって聴いたらいいなと思ったんです。プロデューサーを細野さんか大瀧さんでと言われたので、大瀧さんの方が合うかなと思って、大瀧さんに電話して「大阪に見に行かないか」って言ったんですよ。それで2人で行って、学園祭だったと思うんですけど、聴いたらギターもすごく上手かった。大瀧さんはやっぱりドラムがすごいって言ってましたね。ニューオリンズ風のドラムだと。銀次さんが21歳ぐらいかな、あとは全員10代だったんですよ。ゆかりさんとか角谷くんとかも、みんな10代で。すごく上手だなと思って、大瀧さんが気に入って東京に連れてきたんです。それで自分のとこに住まわせたんですよね。ココナツバンドって名前を変えてアルバムを出そうと思ったんですけど、結局出なかった。
田家:1973年9月21日の文京公会堂でココナツバンドとして登場するわけですが、そこに至る話が今週のテーマになるんでしょうね。 関西から上京してきて三浦さんの家に居候してきたアーティストというのが何人か居まして、その中の1人です。西岡恭蔵さん「プカプカ」。
プカプカ / 西岡恭蔵
田家:1972年7月発売、西岡恭蔵さんの「プカプカ」。1stアルバム『ディランにて』からお聴きいただきました。12月にシングルカットされた曲ですね。西岡恭蔵さんは三浦さんがレコードを出したいということで始まったと。
三浦:あがたさんが「赤色エレジー」をレコーディングしてる最中に僕の家にあがたさんが西岡恭蔵さんと友部さんを連れてきて、3人がいろいろ音楽の話をしてる中で、それぞれの持ち歌を披露し合っていて。そこで恭蔵さんの歌う「プカプカ」を初めて聴いて、すごく歌上手いなと思って声をかけたんです。そしたらその気になってくれて、恭蔵さんが僕の家に居候することに。バックをやってる田中さんと林くん、とんちゃん。この2人も当時16〜17歳で家出少年みたいなもんですよ。2人も僕の家に居候していて、恭蔵さんの最初のレコーディングでは、ドラムが林さんでベースが田中くん。またこの田中くんのベースがすごくて(笑)。細野さんが自分の後釜だって言うほどのベーシストだったんです。
田家:あがたさんも渡さんも恭蔵さんもそうですが、レコード出しませんかって言いに行く時はどういう心境なんですか?
三浦:結局僕は当時無名のディレクターですから、普通はプロダクションからとか会社から僕にタレントがあてがわれる。でも誰もあてがってくれないわけじゃないですか。しかも無名だから誰も向こうから来ないわけですよ。だから何回も断られても、自分で行く以外ないんです。そういう感じ(笑)。
田家:なるほどね。無名だからできたということになるかもしれませんね。恭蔵さんの曲をもう1曲お聴きいただきます。1972年発売、西岡恭蔵さんの1枚目のアルバム『ディランにて』から「サーカスにはピエロが」。
サーカスにはピエロが / 西岡恭蔵
田家:プロデュースは吉野金次さん。
三浦:吉野さんはあの「プカプカ」のホンキートンクピアノもそうですし、大瀧さんの「乱れ髪」のストリングスアレンジと、何でもできるエンジニアなんですよね。天才エンジニアだと僕は思ってます。
田家:吉野さんはその時はまだご自分の会社とかはやってらっしゃらないんでしょ?
三浦:いや、もうやってました。細野さんの『HOSONO HOUSE』の時から独立しました。
田家:なるほどね。ザ・ディランIIも大阪バンドで、東京のはっぴいえんど、大阪のザ・ディランIIというふうに言われた時期もちょっとありましたね。それと中部博さんがお書きになった西岡恭蔵さんの本が出ましたね。
三浦:いい本でしたね。
田家:恭蔵さんも伊藤銀次さんもそうですけど。はっぴいえんどの解散コンサートで、大瀧さんがココナツバンドで、恭蔵さんは細野さんがプロデュースをするということで紹介されてましたよね。
三浦:あがたさんもそのとき恭蔵さんと一緒に僕の家に居候してましたから。それで恭蔵さんが僕とあがたさんにバックコーラスをやってくれって言って、あがたさんと一緒にやったんですよ。何歌ったか忘れたけど(笑)。
田家:三浦さんはそうやってステージで歌ったことって?
三浦:初めてですよ。大学の時はやってましたけど。
田家:恭蔵さんの曲をもう1曲お聴きいただきます。『ディランにて』から「サーカスの終わり」。
三浦:アンサーソングですね。
サーカスの終わり / 西岡恭蔵
田家:ドラムとリズムってどなたでしょう?
三浦:これもアルバムの中の1曲だからドラムが林さんで、ベースが田中くんですね。
田家:恭蔵さんの居候話にもう一つエピソードがありまして、居候してるときに恭蔵さんの恋人、KUROさんが訪ねてきたと。
三浦:そうなんですよ。まだ高校生じゃなかったかな。「恭蔵さんいますか?」って突然現れて。もしかしたら恭蔵がなんか悪いことをやって追いかけられてるのかなと思って(笑)、最初警戒してたんですよ。でも僕の奥さんが話をして、その時に恭蔵さんがたまたま家にいなかったので待ってたらっていうことで。そしたら恭蔵さんの恋人だったんですけどね。家出少女だと思ってました。
田家:縁結びが三浦さんだったということになりますね。
田家:再びはっぴいえんどに戻ります。1973年2月発売、3枚目のアルバム『HAPPY END』から三浦さんが選ばれた曲「相合傘」。
相合傘 / はっぴいえんど
三浦:これは後に矢野顕子さんと細野さんが一緒にステージをやったり、あっこちゃんがアルバムに入れたりしたんで、そういう意味で僕にとっては嬉しい曲ですよね。別の方がいろいろな形で歌い継いでくれる。あと、この曲も名曲だと思って選びました。
田家:はっぴいえんどの3枚目のアルバムはロサンゼルス旅行なんですが、このレコーディングの日にちがいろいろな資料の中で出てるわけですけど、いくつかあってどれが本当なんだろうと思いまして。三浦さんの当時の手帳がありまして、それを見てみると10月4日からになってるんですか?
三浦:10月4日にLAに着いて、それでレコーディングを始めたのが7日から。手帳に「微笑み」と「風来坊」と「さよなら通り3番地」って書いてあるんですよ。だからこの「微笑み」が「相合傘」なんじゃないかなって僕はちらっと思ったんですけど。
田家:ついてすぐにやったような曲ですね。
三浦:この曲は細野さんが自分のソロアルバム用にとっておいた曲だったみたいなんですけど、ここに入れてくれたんですよね。
田家:そのレコーディングはいつまでになってるんですか。
三浦:23日までやってます。
田家:メンバーみんなずっとそこにいたわけですもんね。このアルバムからもう1曲をお聞きいただきます、「無風状態」。
無風状態 / はっぴいえんど
田家:はっぴいえんどの3枚目のアルバム『HAPPY END』から三浦さんが選ばれたもう1曲、「無風状態」でした。はっぴいえんどのロサンゼルス旅行はそもそもは三浦さんが高田渡さんと行く予定だったと。
三浦:僕と大瀧さんと渡さんがいろいろレーベルの話をしていて。当時、アメリカのレーベルを主に聴いていたので、当然大瀧さんはやっぱり録音がすごく好きな人だった。アメリカに行って、16チャンネルの録音状態を見たいっていう話も出てきていたので、だったら1回ロサンゼルスに3人で行ってみようかって話になってたんですよ。けど、3人で行ってもレコーディングできるわけじゃないんで、16チャンネルをきちっと見てくる意味でも、大瀧さんに「アメリカでレコーディングしないか」と。そういう思いもあって、はっぴいえんどで行けば、後の活動に絶対プラスになるから行きましょうってなり、大瀧さんがメンバーを説得してくれたんだと思います。
田家:他のメンバーはあまり乗り気じゃなかったんですか。
三浦:メンバーっていうか松本さんですよね。今から思えば当時解散してたから、松本さんは自分の出番はもうないんじゃないかとたぶん思ってたと思うんですよね。僕は全然そのへんを知らなくて、とにかくはっぴいえんどの将来を考えたら絶対に連れて行った方がいいなと思って、強引に連れて行きました。
田家:大瀧さんはソロアルバムがあったのであまり自分の曲が残ってなかった。
三浦:そうそう。だから大瀧さんはほとんどロサンゼルスで書いてますよね。細野さんの「無風状態」も詞は向こうで書いてるんですよ。
田家:そうなんですか。
三浦:それで詞の中にエイハブ船長が出てくるじゃないですか。それがはっぴいえんど解散を絡めていろいろ都市伝説みたいに語られていて。大瀧さんがエイハブ船長に例えられて、「なんか俺が解散させたのかな。細野さんはそういう思いで作ったのかな」みたいに大瀧さんも思ったらしく。細野さんは全然そういうことじゃなかったみたいなんだけど。
田家:やっぱり解散話はいろいろな形で取り沙汰にされたんでしょうね。三浦さんがこのアルバムからもう1曲選ばれましたB面の1曲目、「さよなら通り3番地」。
さよなら通り3番地 / はっぴいえんど
田家:三浦さんが選ばれてる40曲を今月はご紹介していて、はっぴいえんど関係が多いのは当然ということになると思うんですが、この曲を選ばれた理由は?
三浦:これは茂さんの曲で、ビル・ペインとかローウェル・ジョージが参加するんですよね。今手帳を見ながら思い出したんだけど、10月19日にミックスダウンをやる時にリトル・フィートのローウェル・ジョージとビル・ペインが一緒に来てくれた。その後、彼らがレコーディングしてるスタジオに連れて行かれて、リトル・フィートのレコーディングを見たんですよね。これも着いてすぐ行った説とか、いろいろあるんですけど手帳を見るとここにローウェル・ジョージとビル・ペインが来て、その後に行った感じですね。
田家:すごいなその手帳(笑)。
三浦:リトル・フィートのリズム隊を見てびっくりしちゃって。それで後の矢野顕子さんのレコーディングで一緒にやらせてもらうっていうところに繋がるんですよね。
田家:なるほどね。さっきアメリカの録音を見に行くみたいな話をされたときに、例えばサンセット・サウンドであったり、そういうスタジオまでみなさんはイメージがおありになったんですか。
三浦:いやそれはロサンゼルスにいるキャシー・カイザーさんっていうコーディネーターの方、彼女は「ミュージック・ライフ」の特派員だったんですけど、全部やってくれたんですよね。サンセット・サウンド・スタジオもバッファロー・スプリングフィールドの「ブルーバード」を録ったところだったからね。サンセット・ブルーバードだったから「ブルーバード」したのかもしれないですよね。あと、所謂バーバンク・サウンドの人たちが使ってるスタジオ。当時はロック専用のスタジオって言われてました。
田家:バーバンク・サウンドには レニー・ワロンカーっていう名プロデューサーがいて、ライ・クーダーとか、いろいろな人がやってましたけども。
三浦:そうそう。ランディ・ニューマンとレニー・ワロンカーが幼馴染でヴァン・ダイクがワーナーの社員。それでその3人が核になってリトル・フィートとかドゥービー・ブラザーズ、それからライ・クーダーですよね。そのへんでバーバンク・サウンドみたいなやつをやってましたよね。
田家:三浦さんの中にレニー・ワロンカーという意識はもうあったんですか?
三浦:僕は日本で一番売れなかった洋楽があることを『ミュージックマガジン』で聞いて。それがヴァン・ダイクの「ソングサイクル」で。当時、僕のうちに居候してたみんなでそれを聴いて、みんな一番売れなかったレコードにはまっちゃって。それで LA へ行くんだったらバーバンク・サウンドだなってちらっと僕も思ってて、大瀧さんにしても細野さんにしても茂さんにしても大体そっちの傾向ですよね。渡さんもライ・クーダーが好きだった。だから、もうざっくりとバーバンク・サウンド、当時カリフォルニア・サウンドって言ってたんですけど、それをイメージして、『ヤングギター』の山本さんとキャシー・カイザーさんに『風待ち』のアルバムを渡したんですよ。キャシーさんはそれを見て、サンセット・サウンド・スタジオとかヴァン・ダイク・パークスとか、そういう人たちを連れてきてくれたんです。だからもろバーバンクの中心人物を連れてきたってことですよ。
田家:三浦さんはレニー・ワロンカーか何かに憧れてたんではないかって説があったりも。
三浦:そうなんですよ。僕、人に言ったことないんです。恥ずかしいからね。
田家:でも憧れはあったんですか。
三浦:もちろんありましたよ。帰ってきていろいろ調べたらレニー・ワロンカーという人がリプリーズっていうワーナーの子会社の社員になって、その子会社を活性化させてワーナー本体の社長になったという。やっぱり名盤を一番出してるのが、その人だと思って。ライ・クーダーの最初の作品もレニー・ワロンカーですよね。
田家:それは帰ってから調べたんですね。行ったときには?
三浦:全然知らない。
田家:なるほどね。本当に体当たりみたいな形で行ったんですね。
三浦:たまたま行ったところが、今で言う音楽のシリコンバレーみたいなところだったんですよね。これから新しい人がどんどん出るよという時期にたまたま中心人物と一緒に仕事できたのは奇跡ですよね、
田家:日本もアメリカもそういう時代だったと。今日最後の曲は「さよならアメリカ さよならニッポン」です。
さよならアメリカ さよならニッポン / はっぴいえんど
田家:この曲で終わるべくして終わる流れですね。1972年当時僕らの気分はこれでした。
三浦:一般的には曲によってはっぴいえんどの日本語のロックは完結したと言われてますけど、僕もそう思いますね。一番気に入っているのは誰が言ったか忘れたけど「この曲は日本のロックのマニフェストとして今も生きてる」っていうコメント。それを聞いて、すごいなと思ってね。大瀧さんがレコーディングのことをネットでいろいろ詳しく話してますけど、僕もその場にいたんです。所謂いろいろなリズムを同時進行するポリリズムも加えながら、ヴァン・ダイク、細野さん、大瀧さんが同じ場所で作業をしてるのが今から思えばすごい光景だなって思いますね。結局あの曲が自分たちにとっての転機だったって全員が言ってますけど、大瀧さんもレコーディングのやり方を見て「もうこれで僕は全てわかった」って言ってましたしね。だから、そういう意味ではこの1曲はいろいろな意味でメンバーにも、それから後の日本のレコーディングにも影響を与えたんじゃないかなと僕は思ってます。
田家:アメリカにも学ぶものはないし、日本には帰るものがないと。
三浦:そうそう。日本とかアメリカとかそういうのを超えたということですよね。
田家:無国籍宣言ですよね。三浦さんは日本の音楽に対してはどんなふうに思ってらしたんですか。
三浦:とにかくクオリティの高い音楽を作ろうということしか念頭になかったので、まさに集まってきた人たちはそれにふさわしい人たちばっかりだった。彼らの活動に僕が乗っかっていったという感じですよね。
田家:なるほど。来週は4週目です。よろしくお願いします。

田家: FM COCOLO 「J-POP LEGEND FORUM」 ベルウッド・レコード50周年。日本の新しい音楽の土台を作り上げたベルウッド・レコードの50周年を記念した1ヶ月。創設者・音楽プロデューサーの三浦光紀さんをゲストにお迎えしております。今週はパート3。今流れてるのはこの番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
歴史の真実と言うのでしょうかね。真実と事実って言い方をよくしますけども、当事者しか知らないことがあるわけで。いろいろな人がいろいろな資料をもとに分析したり、辻褄を合わせたり、解釈したりすることで作り上げているストーリーがあるわけです。いつどこで何があったのか、なぜそうなったのかという事実は、やっぱり一つしかないわけです。そういう議論で最も対象になるのがバンドの解散でしょうね。バンドメンバーでは語れないこともあるわけで、そういう語れないことを知っている当事者もいるんですよね。それでいて全員に対して一定の距離を置いて客観的に見ている。はっぴいえんど解散での三浦さんの立ち位置はそれじゃないでしょうか。
正式な解散コンサートは1973年だったわけですが、72年には既に解散は決まっていた。その時にアルバムも作っていた。もちろん、はっぴいえんどのアルバムもそうですし、大瀧さんのソロアルバム、細野さんのソロアルバムもはっぴいえんど解散コンサート前に出ているわけで、それを作ったのが三浦さんですね。文京公会堂のステージには三浦さんもコーラスとして立っていたという、そういう関係だった。実質はっぴいえんどの解散50周年かと思ったりしながら聞いておりました。
三浦さんが手帳をずっとお書きになっているのは知ってましたけど、今日初めて目にしましたね。何月何日何時から何時まで何があった。その時誰と誰が何をしていたと書いてあるんですよ。あれは貴重ですね。あの手帳は今後どうなっていくんだろうと思ったりしながら来週を迎えようと思っております。大瀧さんがメモマニアでいろいろな書き物を残していて、それが一つの事実になってるのですが、三浦さんの手帳には何が書いてあるんだろうと思います。来週も楽しみにしてください。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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