吾妻光良 PART1 「同じブルーズでも、管が入ったものはとくに居心地がいいな、と」【不定期連載「旅と酒とブルーズと」】 – TV Bros.WEB (テレビブロス ウェブ)

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日本では数少ないジャンプ・ブルーズ・バンドとして絶大な人気を誇る吾妻光良&The Swinging Boppers。ダイナミックに躍動し陽気にスウィングするサウンド、ユーモアとペーソスあふれる楽曲の人間臭さに病みつきとなるファンは数知れず。ミュージシャンからの支持も絶大なミュージシャンズ・ミュージシャンでもある。そんな彼らは、メンバーのほとんどが生業を持ち、仕事と音楽を両立させてきた稀有な存在。なかでも、学生時代から永井”ホトケ”隆率いるブルーヘヴンのギタリストとして活躍しながらも某テレビ局の音声マンとの二足の草鞋を貫いてきたリーダー吾妻光良は、抜きん出て個性的なギター/ヴォーカル、人懐っこくてユーモアあふれる人柄ともに、めちゃくちゃ魅力的な人物だ。定年退職を迎えた昨年、めでたくプロ入りを果たした吾妻さんに、ブルーズとの出会いや独特のブルーズ観、曲作りの秘密、仕事と音楽の両立、プロ入り後の心境、そして来たる5月29日に開催されるTOKYO BLUES CARNIVALに向けた思いなどをじっくりお聞きした。え~と、ワインもう1本?
取材・文/染野芳輝
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目次
ーー吾妻さんは70年代の半ば頃から妹尾隆一郎さんのローラーコースターや永井隆さんのブルーヘヴンのギタリストとして、ブルーズの世界ではすでに知られた存在でしたよね。当時、僕も何度かライヴを観させてもらいましたけど、あの時まだ大学生だったんですね。
そうですね。若かったなぁ(笑)。
ーーけっこう年上の方々と一緒にやっていた。たとえばホトケ(永井隆)さんは今、72歳だそうですし。
だから5歳年上ですね。妹尾さんにいたっては7つ上。あんなに早く亡くなられるとは思っていなかったですけど……。
ーーギターを弾き始めたのはかなり早かったんですか?
ですね。兄貴の影響でね。兄貴が始めたのが中学1年だから、僕は小学校2年ですかね。弾くと殴られるんですけどね(笑)。
ーーあ、お兄さん(ハード・ロック界の重鎮ギタリスト、ジョージ吾妻氏)のギターを勝手に弾いてた?
そうそう。音楽はもともと好きだったんですよ。親父は電機メーカーに勤めていて、自分でステレオを作って、SP盤を集めてたし、お袋は近所の子供にピアノを教えてたんで、自然に音楽と電機・電気が好きな子供になっちゃった。まんまですよね、何の反逆精神もない(笑)。お兄ちゃんがギターをやれば、僕もっていう。素直な子供だったんですねぇ。
ーーそんな吾妻少年が、やがてブルーズに出会うわけですが。
ちょうど子供から思春期にロックが台頭してきた世代なわけですよ。で、ロックの始まりはブルーズだってことを知ってね。クリームもレッド・ツェッペリンも、みんなそのルーツにはブルーズがある、と。だから、中学2、3年の時にはブルーズは学内で普通に使われる用語になってた。
ーーええ~! 本当ですか? 僕は吾妻さんと同世代だけど、ブルーズなんて知ってる友達はごく一部だったなぁ。。
みんな洋楽を聴いててね、邦楽聴くなんてバカじゃねぇの? なんて背伸びしてるヤツばかりだった。で、69年から70年にかけて洋楽のアーティストが来日し始めるんですよ。B,S&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)とかね。それで、69年の秋にジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズが来日して田園コロシアムでライヴをやるっていうんで、もう学校中が沸き立ったわけ。ようやくブルーズのミュージシャンが来る! って。ところが、私の同級生にアンドレって男がおりましてですね、どこで聞いたんだか「吾妻よぉ、ジョン・メイオールっていうのは偽物らしいぞ」って言うわけですよ(笑)。
ーー黒人のブルーズに影響を受けた白人ブルーズマンだ、と。それを“偽物”って言っちゃった。
ね? で、「来年になるとB.B.キングっていう本物が来るんだぜ」って言うわけよ、アンドレが(笑)。でも、こっちは何が偽物で何が本物かわかんないからさ、そう言ったら『じゃあ、これを聴け』って貸してくれたのがB.B.キングの『ライヴ・アット・ザ・リーガル』だったんだよね。
ーーそれがブルーズ初体験。いきなり名盤と出会ったわけですね。
そう。だけど、すぐに『うわっ、スゲぇ』と思ったかというと、そんなこともなくて。ただ、何かちょっと違うなっていうのは分かりましたね。ギターが上手いのはもちろんだけど、メロディーや歌の感じが何かちょっと違うな、と。で、アンドレの話に戻るんだけど、じゃあどっちのライヴに行く?って話になって、みんなはジョン・メイオールだけど、俺たちは本物のほうだろうってことで、B.B.キングの来日公演に行ったんですね。なぜかアンドレは当日、来なかったけど。
ーーB.B.キングの初来日、観てるんですね。羨ましい。サンケイホールでしたっけ?
そう! サンケイホール。1970年の2月。寒いなか、ひとりでトボトボと行きました。B席1,500円! お小遣い貯めてね。前座が成毛滋さん、つのだ☆ひろさん、それに当時はグループ・サウンズが終わったあとで、タイガースのジュリー(沢田研二)とテンプターズのショーケン(萩原健一)が組んだPYG。英語でストーンズの「悪魔を憐れむ歌」なんか演ってましたね。あともうひとりいたけど誰だったかな。でもB.B.キングの演奏は今でもよく覚えてる。すごいメンバーでね。ドラムが有名なソニー・フリーマン、ベースが弟のウィルバート・フリーマンで、ホーン・セクションも5管ぐらい。もう時効ですけど、こんなでっかい英会話用のカセットを持ち込んでね。そのテープをちょっと前に聴いたら、変な子供の声が入っててね。誰だ、この子供は?と思ったら俺の声だった。声変わりする前の(笑)。まぁ、あの時期のB.B.キングを観たっていうのは、ちょっと自慢ですね。で、なるほど、これがブルーズかと思ったわけです。
ーーそれで一気にブルーズに傾倒していった?
いやぁ、それほどオトナじゃなかった。ロックと並行して、ちびちびとブルーズも聴くように。まぁ、B.B.の次はフレディ・キング、その次はアルバート・キングって3大キングから始まって、少しずついろんな人のレコードを聴いていって……。
ーー完全にハマったわけですね?
浪人の頃には、もう顔の黒い人のレコードしか買わなくなってた(笑)。最初は無理矢理というか、背伸びして聴いてるようなところがあったんだけど、だんだんブルーズのいいところが分かってくるんだよね。ギターだけじゃなくて、歌の良さが分かったのはジョン・リー・フッカーですかね。あぁ、この節回しとか歌詞の感じがすごく気持ちいいんだなって気付いたんだね、犬のエサをやってる時に(笑)。“ナイト・タ~イム・イズ・ア・ライト・タ~イム”(と歌う)、う~ん、いいな、と。そうしてブルーズにハマっていった。
ーー同時にバンドもやっていたんですよね?
いや、浪人の時はバンド断ちしてたんですよ。現役の時、受験した大学に全部落ちて、家にあったオールドというウィスキーを半分呑んだらえらい二日酔いになって、自己嫌悪に陥り、こんなことじゃダメだ、と思ってね(笑)。もちろん高校の時はやってましたけどね。
ーーどんな感じでやってたんですか?
音楽サークルでやってたんですけど、夏の間ひたすらギターを弾いてた。もう汗だくで、ず~っとフレディ・キングを練習するわけ。なんでそんなに練習したかっていうと……あれ? こんなに喋っちゃってていいんですかね?
ーーいやいや、どうぞどうぞ。お願いします。
じゃあお言葉に甘えて(笑)。ちょうどその頃、ピックから指(弾き)に変えたんですよ。ジョン・ハモンドっていう、中村とうようさんが『ニュー・ミュージック・マガジン』(現ミュージック・マガジン)で0点付けた白人のブルーズマンがいて、彼がインタビューで『指で弾くと指が固くなってピックが要らなくなるんだよ』って言っててさ、なるほどぉ、これだ!って思ったの。まぁ、実際はちょっと固くなる程度なんだけど。
ーーむしろ爪がどんどん薄くなりません? すぐ割れちゃって、僕は苦労しましたけど。
あ、違う。爪じゃなくて、こっち(指の肉の部分)で弾くの。それを習得するために、汗をだらだら流しながら練習したんだよね。
ーーなるほどぉ。吾妻さんのギターって、ものすごくアタックが強くて独特ですけど、あのピッキングのスタイルはそうやって生まれたんですね。
うん、そう。で、なんとか大学に入って、すぐに音楽サークルでバンドを再開するんだけど、その時期は今までで一番、ギターを弾きましたね。1日8時間とか。だから大学に行ってもず~っと部室にいたわけ。で、高校の時から一緒にやってたドラムのヤツが妹尾さんと知り合いで、ジューク・ジョイント・ブルース・バンドで叩いていて、吾妻も次郎吉(東京・高円寺のライヴ・ハウス)のセッションに来てみろよって誘ってくれてね。で、セッションに参加したら、妹尾さんが“キミはなかなか面白いねぇ”と。それでご一緒させてもらうことになったんですよ。だから、こうやって人前でギターを弾けるようになったのも妹尾さんのおかげですね。
ーーそれもハードな練習の賜物ですかね。
う~ん、妹尾さんが何を気に入ってくれたのかは分からないけど、とにかくギターしかなかったからね、その頃の俺には。まだガールフレンドもいない頃だから、人生で一番好きなものだったんですよ。ギターが。まぁ、そのあと、ちょっと弾かなくなったりするんだけど。
ーー彼女もできて?
それが意外な展開で……まぁそれはどうでもいい(笑)。
ーーそうやって妹尾さんのような先輩に認められて、プロになることを考えなかったんですか?
うん、ない。あのね、バカにしないでくださいね。ね? 当時、大学2年ぐらいまでは、俺は特許を取って左ウチワで暮らすんだ、なんて思ってたんだよ(笑)。経済的に余裕があれば、音楽も好きなようにできるだろう、と。
ーーははは。ところで、特許って?
あ、俺、理数系だから。ところが、大学の理工系の演習でショッキングなことがあってさ。ぐあ~っと必死になって、1時間10分ぐらいかけて問題を解いて達成感バッチリだったんだけど、隣のヤツは10分で解いたって言うわけ。なんだとぉ!ってことで解き方を聞いたら、もう発想が違うんだね。俺は馬車馬のようにがむしゃらにやるだけで、アイディアがないわけ。あぁ、こりゃ無理だわ、才能ないわと思って、そこからさらにバンドにのめり込んでいくわけですよ。で、永井(隆)さんとブルーヘヴンをやってる頃に、プロになろう、と。4年の秋ですね。で、「母さん、俺、プロになるよ」と言ったら、母が玄関でヨヨヨと泣き崩れまして、「夫を早くに亡くし、お兄ちゃんはミュージシャン。そして、お前までも……」と(笑)。さすがに申し訳ないと思い、「母さん、1年だけやらせてくれ」ということで続けまして、ブルーヘヴンがレコード・デビューすることになり、その記事が新聞に載ったりもしたんだけど、さすがに爆発的に売れるわけもなく、悩んだ末にブルーヘヴンを辞めて、就職することにしたわけですね。
ーーところが、音楽の道からすっぱり足を洗うと思いきや……。
洗いませんでしたねぇ(笑)。バッパーズをやっちゃったからね。それがあまりにも面白かったんだよね。そうじゃなきゃ続けなかったかもしれない。
 
ーー卒業記念みたいな形でバッパーズを組んで、コンサートをやったんですよね。
そうね。卒業したら相棒の牧(裕。ベーシスト)も故郷に帰っちゃうから、じゃあ最後に何かやるかっていうんで79年にバッパーズをやったんだけど、こりゃ意外に面白ぇぞ、と(笑)。味をしめちゃった。まぁ、こんなに長くやるとは思わなかったけどね。
ーーその頃には、いわゆるモダン・ブルーズだけじゃなく、ジャンプ・ブルーズやジャイヴにも関心が広がってたわけですね?
最初のレパートリーはほぼブルーズだったんだけど、「ON THE SUNNY SIDE OF THE STREET」とか「COME ON LET’S BOOGIE」とかもやってたから、まぁそういうことになりますね。意識としては間違いなくジャンプをやろうとしてた。
ーーメンバーも揃っていたんですよね。8管(ホーン・セクション8人)を含む12人。
うん。で、ありがたいことに、その頃のメンバーが今でもほとんど残ってますからね。1stアルバムから今年で39年ですけど、9人がそのまま。しぶといねぇ、みんな(笑)。
ーー最初から8管のホーン・アレンジはうまくできたんですか? とても難しいと思うんですけど。
それがね、トランペットの冨田(芳正)ってヤツが、まだ若かったから、アレンジしたくてしょうがないわけよ。この曲やりたいって言えば、すぐに譜面を書いてきてくれる。便利だね~と思ったな。だから、レパートリーはどんどん増えていきましたね。最初は5曲ぐらいしかなかったのにね。
ーー音楽的にロックからブルーズへという流れは分かりやすいと思うんですけど、そこからさらにジャンプ・ブルーズへ、どんなふうに移って行ったんですか? ジャンプってけっこうマニアックな部類に入る音楽ですよね。
ん~、でも僕のなかではナチュラルなんですけどね。最初、B.B.から入って、3大キング、ジョン・リーにいって、マディ・ウォーターズとかも当然聴きますよね。で、浪人の時に一番聴いたのがエルモア(・ジェームス)だったんですよ。エルモアはスライド・ギターが有名だけど、けっこう管もバ~ンと入っていて、そこがいいなと。「Wild about you , baby」って曲なんかもそう。“パ~ラッ、パッパ~ラッ”って。そこが最初に聴いたB.B.キングとカブったんだね。
ーーあぁ、あのゴージャスでダイナミックなホーン・セクションがキーワード。
そう。同じブルーズでも、管が入ったものはとくに居心地がいいな、と。まぁ、思春期の頃、ブラス・ロックって流行ったじゃない? B,S&Tとかシカゴとか。それも関係してるのかも。
ーーちょうど大学生の頃、ルイ・ジョーダンとかが雑誌で紹介されて、僕もあのへんを聴くようになった記憶があります。
ルイ・ジョーダンはサウンドだけじゃなくて、そことは違うところに面白さがある。歌詞とかね。
ーーコミカルでちょっと下世話な、大衆芸能的なヴァイタリティというか……。
そうそう、大衆芸能。いいですよねぇ。ほんとにいい。どういいのか、うまく説明するのは大変なんだけど。
ーージャンプ・ブルーズのダイナミックなスウィング感とコミカルな歌詞っていうのはは、ある意味、バッパーズの音楽そのもの。
そうね。歌詞のコミカルな感じというのは、間違いなくルイ・ジョーダンを聴いてから。それまでは歌詞よりもサウンドを追い求めていたと思うんですよ。自分の音楽生活でふたつ大きな流れがあるとするなら、ひとつはギターがスゴく好きってことですね。で、ギターでいえば大学1、2年の時にアルバート・コリンズを聴いて、すっごく衝撃を受けたの。「Sno cone 2」っていう曲はインストなんだけど、ロックしか聴いてない人が聴いたら“なんだ、これはっ!”って思うんじゃないかな。何故かっていうと“弾いてない”んだよね。B.B.にしても、その影響を受けたエリック・クラプトンにしてもそうなんだけど、どうやって感動的に音を紡いでいくか、盛り上げていくか、歌い上げていくかっていう弾き方なのに対して、コリンズは瞬発力なんだよね。ギャ~って弾いて、パッと止めちゃうの。急ブレーキ踏むみたいに。これを俺は“空気投げ”と呼んでるんだけど、弾いてないところがスゴいんだよね。その瞬間に投げ飛ばされた気分になるぐらいスゴいんだ。だから、空気投げ(笑)。もうビックリしちゃって、世の中にこんなギターを弾く人がいるのかっていうぐらい、本当に驚いた。
ーー確かにコリンズのインパクトは強烈ですよね。凶悪なギターというか。
顔も強烈で凶悪(笑)。このアルバムのジャケットは一面、顔のどアップで、そのインパクトにヤラレて買っちゃったんだけどね。よく、あれで遊んだなぁ。
ーー雑誌の連載でお書きになってましたね。ブルーズのジャケは顔のどアップが多いっていうんで、それを自分の顔に付けて遊ぶっていう。爆笑しました。
やってた、やってた(笑)。くっだらないよねぇ。でもそれぐらい衝撃を受けて、大学のバンドでは空気投げばっかりコピーしてた。ひたすら真似をする。もしその成果があったとしたら、大学の終りに書いた教則本(80年に出版された「PLAY THE BLUES GUITAR」)でしょうね。それはともかく、コリンズに衝撃を受けて、これがテキサス系だと知り、そのへんをさらに掘っていくと出てくるんですんねぇ、ゲイトマウス・ブラウンが。こっちはテキサス系で、さらに管楽器も入ってる。おう、なんなんだ、これは!とハマりまして、卒業記念でバッパーズをやることになるわけですよ。う~ん、ロジカルだ(笑)。
ーーなるほどぉ。吾妻さんのギター・ソロの入り方って、めちゃくちゃ鋭くて激しいですよね。あれはアルバート・コリンズ直系なわけですね?
スゴく影響受けてますから。アルバート・コリンズが初来日した時、ちょうどバッパーズの1stアルバムのレコーディングをしてて、下北沢にある「STOMP」(かつて近藤房之助が店主だったブルーズ・バー)のマスターから、今、コリンズが店に来てるから来なよって電話があって、すぐに行ってサインもらったんですよ。で、マスターがコリンズに「こいつはあなたの真似が上手いんですよ」って教則本のソノシートをかけてくれたのね。そうしたら、じ~っと聴いてたコリンズが握手してくれて、「Never Quit!」って言ったんですよ。音楽をやめるな、と。ものすごく嬉しかったねぇ。ものすごく! だから俺は今でもやってるんでしょうね。もう、忘れられない人生の風景ですよ。
ーーいい話だなぁ、それは。そして、一回限りだったはずのバッパーズをすぐに再結成した。
面白くなっちゃってね。で、ルイ・ジョーダン的なものにも惹かれていくわけね。ルイ・ジョーダンも最初、ビックリしたな。有名な「Choo Choo Ch’ Boogie」は基本、ブルーズなんだけど、サビがあるのね。ブルーズにサビがあるって、なんじゃい!? と。歌詞も“新聞には仕事がないって書いてあるけど、汽車に乗って行こう”みたいな感じでよくわかんないだけど、いわゆるブルーズとは違って面白そうだな、と。あの人の生き方っていうと大げさだけど、ライヴを観に来てくれた人には心から楽しんで帰ってほしいんだって繰り返し言ってるのを後から知ってね、そういう姿勢に惹かれたんでしょうね。
ーー楽しませようという、エンターテインメント精神。 
そう。それが、あんなに明確に表れている人はいない。写真を見ても、目ん玉ひんむいておどけたような表情をしてたりさ。それは、いわゆるブルーズの人とは違うでしょ?
ーーそうですね。楽しませようというのはバッパーズの基本的な精神でもあると思いますが。
バッパーズの、というより俺の、ね。メンバーの基本的精神は、楽しく呑めればいい、だから(笑)。いいご身分ですよ。俺はこんなに苦労してるというのにね(笑)。
ーーSwinging Boppersはメンバーのほとんどが他に職業を持ちながら音楽をやり続けてきた稀有なバンドですよね。音楽を生業としたバンドじゃないから、そうでいられるのかも。
まぁ、これ一本で食っていくとなると、売れなきゃいけないとかいろんなプレッシャーがかかってくるだろうし、バンドもギスギスしてきたりするよね。そうまでして音楽をやるのはちょっと違うような気もするし……。ところが、ウチのバンドも年齢を重ねてきて、どんどんプロ入りしてくるヤツが増えてきてるんですよ。
ーー吾妻さんも去年、プロ入りの記者会見してましたもんね。
あ、JIROKICHI(のYouTubeチャンネル)でやったやつね。まぁ、会社を定年退職したっていうだけの話なんだけど、そんな感じで現在はプロが5人、かな。その内、本物のプロは2人だけ。
ーー2人というのは吾妻さんと……。
いや、俺はなんちゃってプロだから。ミュージシャン、時々、無職っていう(笑)。音楽だけでメシを食ってきたのは2人だけなんですよ。で、俺みたいに新たにプロ入りしたのが3人、いや、この3月いっぱいでもう1人プロ入りしたから4人。合計6人か。お~、プロ率50%になった(笑)。だから、これ一本で食って、いや、年金があるから一本で、とは言わないか(笑)。そんな感じでやってます。なので、これからは売れることを目指して、なんてことは思わないねぇ。同世代の、ブルーズが好きな人だけ聴いてくれればいいって感じかな。「ブルーズが嫌いな人の心には穴が空いています」だからね。これはB.B.キングの言葉だけど、いいこと言うなぁ。これを毎週自分のラジオ番組で言ってたんだからね。ほんと、いいこと言うよ。
ーーどうやら、プロ入りしても活動のスタンスは変わらないみたいですね。
 
 ここで1日目は終了。2日目はプロ入り後の現状、最大の魅力である歌詞を中心にした曲作りやギター愛、制作に携わった音楽番組の良き思い出などをお聞きします。お楽しみに!
<プロフィール>
吾妻光良(あづま・みつよし)●1956年2月29日、東京・新宿生まれ。早稲田大学在学中にブルーズ・ハープの第一人者である故・妹尾隆一郎(ウィーピング・ハープ妹尾)のバンドに加入し、新進気鋭のブルーズ・ギタリストとして注目される。その後、永井“ホトケ”隆がウエスト・ロード・ブルース・バンド解散後に結成したブルーヘヴンに加入。同バンドでは80年にブレイクダウンとの2枚組スプリット・ライヴ・アルバムをリリース。79年には卒業記念の思い出作りのために音楽サークルの仲間でSwinging Boppersを結成。一度きりのライヴのはずがあまりの楽しさに味を占め、すぐに再結成。以後、某テレビ局の音声マンとして働きながらバンドを続ける吾妻光良同様、ほとんどのメンバーが生業を持ちながらSwinging Boppersとして活動する、稀有なバンドとして今日に至る。83年には1stアルバム『Swing Back with the Swinging Boppers』でデビュー。以後、最新アルバム『Scheduled by the Budget』(2019年)まで計8枚のアルバムをリリース。日本では数少ない本格派のジャンプ・ブルーズ・バンドとして熱心な支持を得続けている。また、「BLUES & SOUL records」や「Player」などで連載を続けており、独特のユーモア感覚あふれるブルーズ講座(高座?)を楽しむことができる。5月29日(日)には10年ぶりに開催される「TOKYO BLUES CARNIVAL 2022」に出演するほか、注目のライヴが予定されているのでホームページ(https://s-boppers.com)を要チェック!
<CD>
吾妻光良&The Swinging Boppers『Scheduled by the Budget』
Sony Music Associated Records
2019年5月22日発売(アナログ盤も発売中)
1. ご機嫌目盛
2. 大人はワイン2本まで
3. Photo爺ィ
4. Misty(ゲスト・ヴォーカル:中納良恵<EGO-WRAPPIN’>)
5. やっぱ見た目だろ
6. でっすよねー
7. Try a Little Tenderness(ゲスト・ヴォーカル:人見元基<元VOW WOW>)
8. 焼肉アンダー・ザ・ムーンライト
9. 正しいけどつまらない
<Bonus Tracks~2018年12月1日 Recorded Live at 渋谷クラブクアトロ~>
10.150~300
11.最後まで楽しもう
<LIVE>
TOKYO BLUES CARNIVAL 2022
公演日時:5月29日(日) 15:00開場/16:00開演
開場:東京・日比谷野外大音楽堂
出演:blues.the-butcher-50213(ゲスト:山岸潤史)
   吾妻光良&The Swinging Boppers(ゲスト:伊東妙子<T字路s>)
   三宅伸治&The Red Rocks(ゲスト:鮎川誠)
   コージー大内
司会進行:ゴトウゆうぞう&カメリヤマキ
料金:前売り¥7,000/当日¥7,500(全席指定・税込)
主催:M&Iカンパニー
お問い合わせ:M&Iカンパニー 03-6276-1144(月・水・金 10:00~15:00)
 
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