大村雅朗没後25年、生前最後のスタジオをともにした石川鉄男と … – マイナビニュース

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日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年12月の特集は「大村雅朗没後25周年」。1978年に八神純子「みずいろの雨」のアレンジャーとして脚光を浴びてから男性女性を問わずアーティストのアレンジを手掛け、1997年に46歳の若さでこの世を去った編曲家・大村雅朗を偲び、軌跡を辿る。
パート2では2023年2月に開催される「没後25周年メモリアルスーパーライブ ~tribute to Masaaki Omura~」に出演するB・T・S BANDのマニピュレーターで、大村を師と仰ぐ石川鉄男をゲストに迎え、思い出の曲をテーマに8曲を選曲し語る。
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田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは松田聖子さん「櫻の園」。1999年のアルバム『永遠の少女』の中の曲ですね。作詞が松本隆さん、作曲が大村雅朗さん。松本さんの元に残されていた曲に聖子さんのアルバムだったらこの曲を活かしたいということであらたに詞をつけた曲です。彼女がレコーディング中に大村さんの曲だと知って号泣した。そういうエピソードが有名です。今週の前テーマはこの曲です。
今月2022年12月の特集は「大村雅朗没後25周年」。大村雅朗さん再評価の年となった2022年の締めくくりの12月、大村雅朗さんの軌跡を辿ります。今週はパート2。ゲストにトリビュート・コンサートのバンドB・T・S(Baku-san Tribute Session) BANDのマニピュレーター、そして今流れている「櫻の園」の編曲担当、大村さんを師と仰ぐ方です。石川鉄男さんです。
石川:こんばんは。よろしくお願いします。
田家:没後25年ということで、あらためて思うことを。
石川:四半世紀でもう25年かという思いですね。僕は大村さんと最後の方まで仕事をしていたんですけど、亡くなる時に十分心の準備ができていたんですね。亡くなった後に「あー亡くなった……」というよりは「ついにこの時が来たのかな」という感じだったので亡くなった印象があまりなくて、「もうそんなんなの?」って感じの25年ですね。
田家:晩年の2年間もずっとほぼ一緒にいらっしゃった?
石川:亡くなる1~2年ぐらい前ですかね。大澤誉志幸さんのレコーディング兼プリプロダクションでニューヨークに行っていたんですけど、大村さんが急に体調悪いんだけどって。あまりそういうことを言う人じゃないんですよ。スタジオって変な話、親が死んでも来るようなところだったんですけど。譜面もいつもより細かく書いたので、これだけあれば僕が説明できるんでって僕がレコーディングして。夕方頃に大村さんが帰ってきて「俺、あと半年って言われたんだよね」って。そこからがラスト2年ぐらいのスタートというか。それを知りながら2年間ずっと一緒にいた感じです。
田家:石川さんのプロフィールとかお話を拝見すると、大村さんは師である。
石川:そうですね。大村さんは僕のことを弟子とは思ってないですけど(笑)。シンセサイザーのプログラマーって名前があったんですけど、どちらかと言うとプロデュースとか編曲に興味があると言ったら、まだ若い僕に全て手足を取るように教えてくれたんです。ディレクターがああいうふうに言ったことはマネしちゃダメとか言われたり(笑)。
田家:まさに師ですね。「櫻の園」は石川さんの編曲でらっしゃるわけですが、「櫻の園」の話はこの後またゆっくり伺おうと思います。今日は石川さんに思い出の曲ということで8曲選んでいただきました。今日の1曲目、1978年八神純子さんで「みずいろの雨」。
田家:石川さんは1965年生まれで、小学生の時に関わられたのはこの頃?
石川:この前です。親父がコンピューターの設計技師というか、幅広く技術的な職業で世界を駆け回っているみたいな感じで。その時にヤマハがシンセサイザーを作っていたんですけど、もっと複雑なFMシンセサイズを作りたいとなって、プログラミングが必要なんですね。そこに親父が抜擢されたんですけど、急に他にもっとおもしろい仕事が見つかったらしく、「ちょっと俺やらないわ」とか言い出して「鉄男行ってこい」って。おふくろが「この子小学生よ」みたいな感じだったんだけど、「勉強になるから」って言われて3カ月くらい休学してヤマハの浜松に行って、シンセサイザーの開発をしていたんですね。インペグ屋さん、所謂ミュージシャンを斡旋する会社の方からおふくろのところに電話があって「実はDX7というシンセサイザーを使いたいというプロのミュージシャンの方がいるんだけども、誰も使い方が分からないので辿っていったらここに辿りついて。今度スタジオに来ていただけませんか?」って。
田家:それが「みずいろの雨」?
石川:そうです。
田家:すごい!
石川:そこに大村さんがいて気に入ってくれて、「次からもよろしくね」って。そこからスタジオが始まっていった感じですね。
田家:すごいなあ、1978年以来のお付き合いであります。
石川:これは大村さんが亡くなった後に出てきた大村さん作曲の曲ですね。
田家:松本さんがいい曲だからって残していた。
石川:いろいろ考えて、アレンジは4パターンくらい作ったんですね。いろいろなパターンがあったんですけど、こういう言い方は語弊があるんですけど、僕にとってはパロディなんです。大村さんがやったらこうなるんじゃないの?って。ボイシング、歌に対して追いかけるやつも全部パロディですね。大村さんだったらこうするはずって。なので、業界で知っている人が聴くと、ちょっとクスッとなる。大村さんじゃん!みたいな。
田家:松本さんからこの曲の話を伺ったことがあるんですけど、聖子さんにこれは大村さんの曲だって言わなかったそうなんです。でも、歌っている時に聖子さんが気がついたんですって、それで号泣したという話を伺ったのですがスタジオにいらしたんでしょう?
石川:外にいたんですけど、「すみません、1回歌入れ止まります」ってなって。聖子さんは強い人なので、そういう人じゃないんだけど、その時に初めてそうなってしまうという。
田家:この曲がラジオから流れたりすると、石川さんは大村さんとご自分が重なり合う?
石川:そうですね。簡単に言うと、恐れ多いんですよ。今考えれば(笑)。自分で勝手に師と言っている人のパロディみたいな感じで組み立てたので、ふざけているわけではないんですけど、見据えてたような感じになるじゃないですか。みんな「大村さんっぽいし、大村さんがいるみたいだね」って言ってくれるので、ああ、よかったのかなと思っています。
田家:石川さんが選ばれた今日の3曲目です。渡辺美里さんで1986年のアルバム『Lovin you』の中の「君はクロール」。
石川:今回大村さんの没後25周年のメモリアルライブで、初めて「これ大村さんの曲なんだ」って知ったんですね。おそらくこの曲は誰かが書いて、清水信之さんあたりがアレンジしたのかなと思ったんです。結構緻密だし、洋楽っぽいし、ずっとスルーしていたんですけど、この前知って。たまたまその近くにキーボードをやっている富樫春生さんとよく飲んだりするんですけど話を聞いたら、「バク(大村)とこれだけ追求したことなかったわ」って。
田家:この曲は作詞が美里さんで、作曲と編曲も大村さんですもんね。アルバム全曲の編曲とプロデュースが大村さん。アルバムのシンセサイザーオペレーターには松武秀樹さんと浦田恵司さんの名前がクレジットされていました。
石川:浦田さんは打ち込みをしないんですよね。僕も神の音と言うんですけど、太いし奥行きがある音。大村さんが大好きな音ですね。大村さんはピーター・ガブリエルとかが大好きで、浦田さんが作る音ってなんかピーター・ガブリエルに似ているなって。松武さんはプロ中のプロですね。
田家:4人目のYMOですもんね。
石川:もちろん音色もすごいんですけど、大村さんが「分からないよ~」とかわがままっぽく言ったのを上手い具合にニコニコして笑いながら進めていってくれて、プロデュース進行もやられていたみたいで。そのお二方が入れ替わっていく中で、大村さんのサウンドが生まれていたという感じですね。
田家:このアルバムのクレジットでシンセサイザーオペレーターという言葉が使われていて、松武秀樹さんはマニピュレーターという言葉を世間に知らしめた最初の人と言っていいと思うんですけど、マニピュレーターという呼び方はどのへんからになるんですか?
石川:初期がマニピュレーターと呼ばれていて、途中で日本プログラマー協会みたいなのができて、プログラマーという名前にしましょうってなったはずです。その頃は入り組んでいるんですよね。マニピュレーターって言うとセンスを感じないみたいに言ってました。なので、プログラマーって名前を変えた時に松武さんのご尽力でプログラマーにも印税が発生するみたいなことがありまして。
田家:アレンジャーにも印税がなかった時代がありましたからね。
石川:そうですね。松武さんと亡くなられた冨田勲さんが頑張られて。今はプログラマーというのが正式名称になった気もしますね。
田家:『Lovin you』もあらためて聴き直すと、こんなに広い音像のアルバムだったのかと今回思いました。「君はクロール」はその代表的な曲の1つでしょうけど。
石川:このアルバムは僕、完全に参加してないんですけど大村さんと過去と今まで付き合ってきた仲で自由にやらせるとこうなるんです。大村さんとしては俺は完璧なものを出したはずなのに、ちょっとここがとか言われるとちょっとカチンと来るタイプの人で(笑)。
田家:職人魂がね(笑)。
石川:この時はプロデューサーの方もあまり言わなかったというか、バリエーションの高いミュージシャンのいいところを全部引っ張ってくれるアルバムになったんじゃないかなと想像しますけどね。
田家:渡辺美里さんの代表作であると同時に、アレンジャー大村雅朗さんの1つの代表作になっているということですね。石川さんが選ばれた今日の4曲目、この曲も音像の曲です。薬師丸ひろ子さん、1984年「メイン・テーマ」。
石川:いい曲ですねー。この曲を選んだのは個人的に薬師丸ひろ子さんが好きなので聴きたいのもあったんですけど、大村さんっぽくないなと思って。職業アレンジャーというか。
田家:どのへんがですか?
石川:緻密なんですよね。所謂ミュージシャンではない。ちゃんと譜面があって、構成ができていて予定調和で出来上がったオケ。偶然できるオケじゃないですよね。僕のイメージだと譜面台に書いてあって、こんな感じで後はよろしくみたいなニュアンスなんですよ。
田家:実は来週のゲストの佐橋佳幸さんと亀田誠治さんが選曲された2枚組オリジナル『作編曲家 大村雅朗の軌跡 1776-1999』で亀田さんがこの曲を選ばれていて、ご自分でライナーノーツに「ひんやりとした温度感とスタジオミュージシャンの生音が作り出す奥行き」と書かれている。上手い表現ですねー。
石川:やっぱり言葉が違いますね。
田家:そういうことを全部計算されている曲だと。
石川:1個1個が順番に出てきて、それぞれ意味があって、同じことを繰り返さないでどんどん進んでいく。
田家:大村さんの曲は女性の曲を挙げられる方が多いですが、男性の曲も名曲がたくさんあります。石川さんが選ばれた今日の5曲目。岸田智史さんの1979年の曲「きみの朝」。
石川:この曲も思い出があるんですけど、大村さんと小学校の時に初めて仕事をさせていただいて、声をかけていただいた中に石川鷹彦さんというレジェンド中のレジェンドのギタリストがいて。石川鷹彦さんは自宅に当時テープレコーダー16チャンネルとかミキサーが家にあったんですね。上手くいかないところがあって手伝ってくれないかということで、家に呼ばれて行って「これこうですよ」なんて言ってパッと直したら「すごいな」ってなって、お前さボーヤやってくれない?って言われたのがきっかけで、大村さんもたまに遊びに来たんですけど、イルカさんとか伊勢正三さんとかも来てたり、石川さん周りの人の中で岸田智史さんもいて。大村さんがこの曲いいねってなって僕にやらせてよってなったのがきっかけで出来上がった過程を見ていたので、テレビで流れて大ヒットした時にやっぱり音楽ってすごいなと。あんなちょっとした会話でここまで出来上がるんだなという思い出がありました。
田家:石川さんは13~14歳(笑)。さっき「君はクロール」をあらためて大村さんだったんだっておっしゃったでしょ。「きみの朝」を聴いてあらためて、これ大村さんだったんだって思ったんですよ。サビが流れすぎたので、アレンジというところにみんな耳がいかなかった。こんなにピアノが柔らかい上品な曲なのかとあらためて思ったことですね。
石川:さっき「櫻の園」をパロディって言いましたけど、キーボードに向かってアレンジするんですけど4~5割はイントロを作るところに使うんです。イントロができたら、もう終わったって感じなんです。
田家:先週のゲスト、河合奈保子さんのアルバムを特集したんですけど、そこにいらした土屋信太郎さんというソワレというシャンソン歌手の方が、大村さんのアレンジをフェミニンっておっしゃっていたんです。それは言い得て妙だなと思って、今のこの「きみの朝」はフェミニンですもんね。
石川:空間、広さが見えますからね。
田家:岡本おさみさんはフェミニンとは言い難い人ですし、岸田智史さんも男っぽい人ですから、そうか、大村さんなんだってものすごく納得した発見ですね。
石川:当時分からなかったんだけど、今紐解いていくと繋がりが見えますね。
石川:この曲は外せないというか、日本でプリプロダクションをしていて、松武さんと仮のオケを作って、それをアメリカに持っていって差し替える。向こうに行くとものすごくバカにしているんですって。あの頃のアメリカ、今もそうなのかもしれないですけどエイトビートのグルーヴってすごい大事な時代だったんですよ。YMOが出てきて変わってきたとは言え、無機質なエイトビートは子どもの音楽だっていうことを言われたらしくて。大村さんは「この無機質がいいんだよ」と。所謂テクノですよね。テクノのビートを、とにかく正確にって言って結局モヤッとしたまま出来上がったんですって。向こうのミュージシャンたちも、いいんだったらいいよみたいな形で終わったらしいんですけど、結果すごい売れちゃったから(笑)。売れるって理屈じゃないなって。
田家:亀田さんもアルバムの中で選ばれてまして、ドラムマシンのタイトなサウンドに広がる新鮮なコード感とシンセの音。編曲について意識したことがなかったベース小僧がアレンジに目覚めた。この話は来週出ると思うのですが。
石川:亀ちゃんはやっぱりいいところを見てるんですよ。超絶技巧な演奏というより、ずーっと続いていくようなビートとか人が見過ごしてしまうようなところを必ず見つけるというか、そこを聴いているんだみたいなところがプロデューサーだなと思いますね。
田家:さっき石川さんが大村さんにいくつか第何期があるとおっしゃりましたけど、70年代~80年代って音が変わっているでしょう。80年代は特に半ばくらいからまた変わったりしますよね。そういう変わり方と大村さんはシンクロしているものですか?
石川:正確な時期はないのですが、90年代最初から中頃にかけてビートが結構変わってきましたよね。80年代のディスコ、ダンスからエレクトリックに変わってきた。ラップとかヒップホップとかに非常に共感するものがあったというか、もともと自分の好きなビートがそこにあったんでしょうね。僕もスタジオで結構悩まされました。朝行くと、シンガーソングライターの歌謡曲的な曲なんですけど、大村さんが「石川くん、こういうビート入れたいんだけど」ってCDを聴かされるんですけど、全然違うやつで(笑)。そこで化学反応を見たいんですよね。絶対合わないんだけど、石川がこれをやったらどんなふうに混ざるんだろうみたいな。ボツる時もあるんですよ。でもとにかく新しいビート、音数の少ないオケを目指していましたね。変わっていったと言うと、それまでは音色の深さにハマっていた時代から、音数少なくビートにという意味ではすごく大きく変わった。ニューヨークに住まわれた時から大きく変わりまいたね。
田家:さっきお聴きいただいた「君はクロール」とか「メイン・テーマ」は音色、音像みたいなところにこだわっている時代で、そこからだんだんビートに変わっていく。でもやっぱりいつも新しいものというのが常に頭にあって。
石川:新しいものじゃないとノーでしたね。決り文句で「今じゃないんだよね~」って言うんですよ。「どこがですか?」って訊くと「いや、なんか今じゃないんだよね」って。具体的にどこをどうでこういうふうにしたいんだはない。
田家:職人の言葉ですね(笑)。
石川:その言葉に非常に悩まされて(笑)。
田家:次の曲も最近、後年と言っていいんでしょうかね。曲が発売された後に評価が年々高まっている曲であります。今日の7曲目、大江千里さん1988年の曲「Rain」。
石川:この曲は本当に不思議なんですよね。そんなに意識はしてなかったんですけど、ライブでお客さんがみんな「頭から「Rain」が離れないんだけど」って。中毒性がある。決して派手でもないし、目新しいところもないんだけど、当時で言うとこれはソニーがすごくバイタリティがあったレーベルだったのでAメロ用に作った作曲デモテープと全然違う試しに作ったサビのデモテープがあるんですよ。このAとBとこの曲のC、サビをくっつければよくなるんじゃないかみたいな話になってやることが多かったんです。この曲はすぐ転調するんです。無理やりキーを合わせないで、デモテープの時のキーに合わせていくという。渡辺美里さんの「My Revolution」とか大村さんの転調というか、ああいうようなものが当たり前になってポップスになった。いきなりサビで転調したり、渡辺美里さんで言うとSus4というコードを使いながら転調していく方法があるんですけども、そういうのってあまりポップじゃなかった、やっちゃいけないみたいなところもあったんです。
田家:それは小室哲哉さんと言われることが多いですけど、大村雅朗さんも。
石川:ほぼ同時なんですかね。小室哲哉さんと大村さんの渡辺美里さんから始まった、TKファミリーの1stが渡辺美里さんのようなものを感じるので。所謂ポップスで使っていいんだみたいになった大人版がこの「Rain」じゃないかなと。でも気がつかないんですよね。
田家:気がつかないんだけども、耳に残っている。
石川:聴いていてすごく気持ちいいですね。
田家:大江千里さんは1986年のアルバム『AVEC』、1987年『OLYMPIC』、1988年『1234』、全曲大村さんアレンジですもんね。
石川:そうですね。絶大に信頼していましたね。
田家:冒頭で晩年のラストシーン、そこに石川さんがいらっしゃったお話を伺いましたが、大江千里さんもそこにいらしたんでしょう?
石川:そうですね。毎日誰かしらがお見舞いに行っていたところで進行中のプロジェクトもあったんです。僕はその時きっとよくなると思っていたので進行中のものをちょっとずつ裏で進めながら頻繁にお見舞いに行っていたんです。話がある時に、たまたま千里さんが来て、その日だったか次の日だったかが最後だった感じですかね。今まで気弱なことを言わないタイプだったんですよ。大丈夫、大丈夫、オッケーみたいな人なんだけど、最後の最後に「もう私ダメかもしれませんね」みたいな今まで言わないような口調で。
田家:丁寧な口調で。
石川:それが僕にとっては最後の言葉です。その後はご家族の方がいて、そこでの会話は分からないんですけど僕にとっては「私最後かもしれません」みたいな言葉が最後でしたね。
田家:それ聞いた時はどういうふうに思われました?
石川:その時はまだ亡くなることを受け入れる気持ちがなかったので、「いやいやそんなこと言わないでくださいよ」しかなかったですね。
田家:大村さんと出会わなかったら石川さんもこういう形でお仕事されてないでしょ?
石川:そうですね。やさしさというか、自分が好きなことを素直に人に伝えてくる人だったので。僕はシンセサイザーという大村さんが好きな新しいものをどんどんインプットしてくれるんです。1回繋がるといろいろなところに繋げていってくれる人だったので、大村さんがいていろいろな人に出会えて、いろいろなところに紹介してもらったり。
田家:最後の曲です。松田聖子さん1983年の曲「SWEET MEMORIES」。
石川:この曲は僕の目線で観ると、THE大村さんなんですよ。
田家:これがTHE大村雅朗だ! と。
石川:大村さんの中に鳴っている音、メジャー7の音というか、おしゃれで、でもテンションはいきすぎてなくて。ポップである世界観は大村さんのやりたかった音なんじゃないかな。松武秀樹さんと山田秀俊さんというキーボーディスト、コーラスの方がいるんですけども、その方と2人でイントロの一番印象的なところを日々何テイクも作って、コーラスを多重録音して作って本当に苦労したと。あのお二方がいて、大村さんのやりたい世界の奇跡が生まれたんじゃないかな。最初のデモテープを聴かせてもらったんですけど、こういうイントロじゃないんですよ。このイントロがあってこの透明感があったのが大村雅朗が魅せた才能の化学反応ですね。僕もそういうことを大村さんにやられていたのかなという感じがします。
田家:そういうそれぞれの方のメモリーズが2月10日、大阪フェスティバルホールのトリビュート・コンサート25周年スーパーライブで表現される、伝えられるんでしょうね。
石川:そうですね。出演者の方も幅が広くて、1日で1つの軸ではあるんだけどこれを同時に体感できる、やっている方としてもワクワクするんです。次の展開が読めないというか、あれ次誰だっけ? ってなるので観ると本当に楽しいと思いますね。
田家:ばんばひろふみさん、八神純子さん、渡辺美里さん、大澤誉志幸さん、南佳孝さん、槇原敬之さん、バンドがすごいですね。ギター佐橋佳幸さん、ベース亀田誠治さん、ドラム山木秀夫さん、ギター今剛さん、キーボード斎藤有太さん、サックス山本拓夫さん、マニピュレーターが石川鉄男さん。石川さんが一番楽しみにしているご自分のお仕事はどういうものですか?
石川:1日でこれだけの人が立ち代わり出るので、聴いている人を気持ちよくさせてあげたいと思って。そのためにはやっぱり曲間だとか、紹介して「なんとかさんです、次の曲はどうですか、行きますよ」って感じではなくて、劇的にパッパッと歩いてきたら前を向いた瞬間にイントロが流れるとか、そういうタイミングで流す演出を相当考えてみようかなと。
田家:それを司るのがマニピュレーターで、そういう意味でのコンダクターみたいな。
石川:コンダクターみたいなことを楽しみたいなと。
田家:分かりました。素晴らしいライブになると思います。ありがとうございました!
石川:ありがとうございました!

左から、石川鉄男、田家秀樹
田家:流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさん「静かな伝説」です。
「みずいろの雨」の最初のレコーディングで、機材の説明に行ったときに大村さんと出会った。小学生だった話は衝撃的でしたね。そこから1997年の最後も看取られているわけですから、石川鉄男さんの音楽人生に大村雅朗さんという人がどれくらい深く関わっていたかあらためて再認識させられました。
70年代~80年代、ずっと聴いてこられた方はリアルタイムでそう思われたでしょうけど、音が変わりましたからね。エンジニアの時代が訪れて、デジタルレコーディングが始まりドラムの音やベースの音が変わったりした。そういう80年代の音を作り上げた中で、マニピュレーターという人たちの功績は大きかったでしょうね。日本だとYMOを手掛けていた松武秀樹さんが4人目のYMOと言われていたわけで、そういう機材の進歩を最大限活かしながら音を作ってきたのが大村さんだったんだなと、あらためて思いました。
大村さんの本が出ているんですね。『大村雅朗の奇跡 1951-1997』、梶田昌史さん、田渕浩久さんというお2人がお書きになっているんですけども、ここに全曲リストが載っているんです。1978年の「みずいろの雨」。1979年85曲、1980年131曲、1981年211曲。これは僕が自分で数えたので数曲数え間違いはしていると思うんですけど、いきなり増えていっているんだとよく分かります。80年代のテクノロジーを含めたサウンドの変化と一体だったのが大村さん。バンドや生楽器の音だけじゃないアレンジを作り上げて、80年代の音楽を作ってきた。今のネット時代はデスクトップの中でできる時代ですから、こういう時代だからこそ大村さんの音作りが再評価される。これが必然ではないかなと思いながら、来週、佐橋佳幸さんと亀田誠治さんが登場します。
<イベント情報>

大村雅朗 25th Memorial Super Live ~tribute to Masaaki Omura~
2023年2月10日(金)フェスティバルホール(大阪府)
時間:開場 17:30 / 開演 18:30
出演:大澤誉志幸 / ばんばひろふみ / 槇原敬之 / 南佳孝 / 八神純子 / 渡辺美里 / B・T・S(Baku-san Tribute Session)BAND / 佐橋佳幸(音楽監督、g) / 亀田誠治(音楽監督、b) / 山木秀夫(ds) / 今剛(g) / 石川鉄男(Mp) / 斎藤有太(key) / 山本拓夫(sax) [ゲスト]松本隆(トークゲスト) [DJ]砂原良徳(GUEST DJ)
https://omuramasaaki-25th.jp/
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210
OFFICIAL WEBSITE : https://cocolo.jp/
OFFICIAL Twitter :@fmcocolo765
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本記事は「Rolling Stone Japan」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。
※本記事は掲載時点の情報であり、最新のものとは異なる場合があります。予めご了承ください。

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