みゆき主題歌『想い出がいっぱい』H2O・赤塩正樹さんの今 離婚と再婚、社員1人の会社で英語と音楽を教える日々 – Au Webポータル

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知的な雰囲気が漂う赤塩さん(撮影/黒石あみ)
 あの有名なサビのフレーズが、胸にキュンとくる青春ソング『想い出がいっぱい』。1983年、男性デュオ・H2Oが人気アニメ『みゆき』(フジテレビ)のエンディングテーマ曲として歌い、大ヒットした。その後、卒業ソングに採用されたり音楽の教科書に掲載されたりして幅広い世代に愛唱され続けてきたが、歌ったH2Oの2人は今、どうしているのか。2人のうちの1人、赤塩正樹さん(65)に聞いた。
【写真】立ち姿までスマートな赤塩さん
 * * *
「僕は今、出身地の長野を中心に、東京と行ったり来たりしながら『AKA(エイケイエイ)プラネット』という会社を経営しています。音楽制作や英語と音楽を教えたりしています。会社の所在地は世田谷区、社員は僕1人。アルバイトを雇ったりもしますが、英語も音楽も基本は僕が直接、教えています。英語は企業に勤務する会社員にビジネス英語を、音楽はプロの卵やプロを目指している学生にボーカルやギターをレッスンしています。英語の生徒は18人ほど、音楽は40人ほどいます。通訳や翻訳も手がけています」
 音楽はともかく、英語というのはどういうこと?
「僕が音楽を始めたのは、小学校5年生のときに、親戚のお兄ちゃんにビートルズを聴かせてもらったのがきっかけ。そのときに、洋楽のメロディーとともに英語の音の響きに魅了され憧れました。だから、明治大学経営学部に進み、中学の同級生だった(中沢)堅司とH2Oを結成したときも、ほとんど英語で歌詞を書いていたんですよ。
 でも、アミューズとプロ契約をしてから『日本語で感動させないとダメだよ』とレコード会社に求められ日本語で書いていましたが、『いつかは世界へ出て勝負したい』という思いで英語の雑誌を読むなど勉強を続け、H2O解散後は渡米してニューヨーク大学大学院で教育と音楽を学んだのです。学びながら、現地で日本人に英語を教えてもいました」
 しかし、いきなりニューヨーク大学大学院に留学するなんて、赤塩さん、インテリなんだなぁ! TOEIC990点で、英検1級、国連英検特A級、通訳案内士などの資格を持っているのだそうだ。
「当時は大学院入学に、そこまで高い英語力は求められなかったんです。それに、解散後にニューヨークに行ったのは、いきなり留学するつもりではなくて、事務所が『お疲れ様』と飛行機のチケットをくれたからで、3週間くらい旅行するつもりでした。
 僕としてはまだH2Oの活動を続けたかったのにできなくなって、失意に打ちひしがれ、せめて英語をマスターして帰ってやるぞ、と思って……。ところが、3週間でマスターなんてとても無理。もっと勉強したくなり、また刺激的な街の空気にも惹かれ、滞在を延期し大学院で学ぶことにした、というわけなんです」
 32歳で帰国後はフジパシフィック音楽出版と専属作曲家契約を結び、中村雅俊や稲垣潤一らに楽曲を提供。アミューズの新人への歌唱指導を経て、45歳から7年間はJICA(外務省所管の独立行政法人国際協力機構)の嘱託職員になり、語学スーパーバイザーとして研修生の指導・管理、教材整備、語学教師のとりまとめ役などを担っていた。
「楽曲提供やアミューズで歌唱指導をしながら、通訳や翻訳、神田外語学院や立正大学で英語講師もしていました。その縁で『JICAの事業の面接試験を受けたら』と勧められ受験したら採用されました。僕は父方に教育者が多く、母方にはオペラ歌手や染織家など芸術方面に進んだ人が多い。H2Oを解散後、ずっと英語教育と音楽に携わってきたのは、その両方の血が流れているためかもしれません」
 JICAとの契約終了後、英語と音楽を教える会社を設立し現在に至るという赤塩さん。プライベートでは結婚・離婚も経験。現在は、JICA関連で知り合った女性と2007年に再婚し、2人暮らしだ。
「最初の結婚は33歳のとき。相手はニューヨークで英語を教えていたときに知り合った2歳年下の米国人です。日本で結婚し日本で作曲家として活動していたのですが、結婚5年目に彼女が帰国を希望し、僕は日米を行ったり来たりしていました。1人娘が生まれたのですが、妻とはすれ違いが多くうまくいかなくなり……。まだ娘が小さかったので、子どもとの別れがつらくて落ち込み、1人で川べりを散歩していると涙が出て止まらなかった時期もありましたね。
 そんな娘ももう24歳になり、今ではビデオ通話ソフト・FaceTimeでしょっちゅう話していますよ。米国中部ミネソタ州ミネアポリスの、教育機関の会社でスーパーバイザーをしています。プロ歌手になる夢も持っているので、がんばってほしいですね(笑い)」
 公私ともに紆余曲折、いろんなことがあったのだ。ところで、H2O再結成はないのか。
「1999年に、僕らH2Oの出身地・長野県の上田市から市制施行80周年のイメージソングを作ってほしいと依頼され、再結成し『ここにおいでよ』を歌っていたことがあります。その後、堅司は奥さんの実家のある熊本に移住して活動しているので、今また一緒に、というのはなかなか難しいかもしれません。一緒にやりたくないわけではありませんよ。僕らは関係がギクシャクした時期もありました。
 でも、デビュー前、東海大学の学生で湘南に住んでいた彼のアパートで一緒に朝まで曲を作ってコードを教え合い、ハモり……夕方に起き出して蕎麦屋でカツ丼を食べて……毎日がすごく楽しかった(笑い)。そんな日々が今は懐かしく、僕の青春でした。60歳を過ぎてみたら、僕の中ではわだかまりが無くなり、彼にも感謝の気持ちでいっぱいです。今は、たくさんの人が求めてくれる『想い出がいっぱい』を歌い継ぐことが大事なんじゃないか、と思ったりしています」
『想い出がいっぱい』は人気アニメ『みゆき』のエンディングテーマ曲となりヒットしたが、当時、歌っていた2人には複雑な思いがあったそうだ。
「『想い出がいっぱい』の素晴らしいメロディーは鈴木キサブローさんの曲で、作詞は阿木燿子さん。僕らはシンガーソングライターでしたから、自分たちが作った曲で勝負したかったのに、『ウレセンじゃない』と勝負させてもらえなかった。実力がなかったと言われればそれまでですが、当時はヒットしても自信喪失していました。
 もちろん、『想い出がいっぱい』がいい曲だとは思っていました。最初にキサブローさんのロックっぽい歌声でデモテープができてきたときはイメージがわかず、阿木さんの歌詞が載って爽やかに仕上がったときは『すごい、これがプロか』と驚いて、あれよあれよとヒットして……当時のほとんどの歌番組に出演しプロの世界を見せてもらえた。僕にとっては、青春を豊かにしてくれた名曲です」
『想い出がいっぱい』の後は音楽と英語という2つのジャンルでキャリアを積んできた赤塩さん。今はその経験を生かし、また表に出る活動を増やしていきたいのだとか。
「5、6年前から僕自身が表に出る活動も再開しました。毎週金曜日、SBC(信越放送)ラジオで洋楽の名曲を歌い英語を交えて解説する、というコーナーを担当したり、これまで書きためた曲が200曲ほどあるので、YouTubeで少しずつ発信したりしています。
 このほかに、2年前に『Memes(ミームズ)』というユニットを結成し、井手麻理子さん、番匠谷紗衣さんと3人でコンサートをしています。英語の番組もやりたい。これからはこうした活動を増やしていきたい。憧れていた加山雄三さんや吉田拓郎さんが引退を宣言したりするのを聞くと、『僕も急がないと人生が終わっちゃう!』と焦りを感じるようになりました(笑い)」
 美しい高音の歌声は健在。“アラ還の青春ソング”を聴かせてほしい。
◆取材・文/中野裕子 撮影/黒石あみ
08/28 07:15
NEWSポストセブン
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