社交ダンス、その始まりと魅力を探る ワルツ、フォックストロット、タンゴ、リンディーポップ、チャチャチャ – 日本経済新聞

POP

日本経済新聞

ナショナルジオグラフィック
日経の記事利用サービスについて
企業での記事共有や会議資料への転載・複製、注文印刷などをご希望の方は、リンク先をご覧ください。
ダンスフロアにはいつも心躍る何かがある。ここで人々は出会い、交流し、ときには、タンゴやフォックストロット、ジルバなどの社交ダンスを披露する。
ダンスフロアはかつてエリートの聖域で、庶民が入り込む余地はなかった。しかし、19世紀の激動のなか、ダンスフロアも民主化され、世界中からインスピレーションを得た新しいステップが登場するようになった。おなじみのダンスがどのように生まれ、現代のダンサーに受け継がれていったか、紹介していこう。
軽快な4分の3拍子とロングステップのシャッセ、女性ダンサーが男性パートナーを「追い掛ける」パスートなどの優雅なバリエーションを持つワルツは、現代人の目には、富と趣味の良さを体現する時代遅れのステータスシンボルに映るかもしれない。しかし、この典型的な社交ダンスのルーツは、実は下層階級にある。
ワルツは現代の競技ダンスで認められているなかでは最も古いダンスで、18世紀のドイツやオーストリアで庶民が踊っていた求愛のダンスに端を発する。ドイツ語で「回転」を意味する「ワルツェン」を語源とし、クルクル回る動きで上流階級に対抗した。しかし、貴族たちは使用人のにぎやかなパーティーを見て、そこで踊られているダンスに挑戦し、結局、とりこになった。
当時流行していたメヌエットは振り付け通りに離れて踊るダンスだが、ワルツはパートナーと密着して即興で踊るダンスだ。18世紀後半から19世紀前半にかけて、公共のダンスホールがつくられるきっかけになった。そこでは、人々が見知らぬ人と交流し、ヨハン・シュトラウスなどの曲に合わせて、夜通しクルクル回ることができた。歴史家のルース・カッツ氏が指摘しているように、ワルツは自由と恋愛、そして、上流階級と下層階級が交わる機会をもたらした。
官能的あるいは軽薄すぎるという批判が出たにもかかわらず、ワルツは19世紀、ブームを巻き起こす。「ワルツは、さまざまな人が平等な立場で集うことを可能にしただけでなく、官能の私的世界で回転するというスリリングでフワフワする感覚によって、一種の現実『逃避』を可能にした」とカッツ氏は記している。
ダンスホールはオーストリアのウィーンで生まれ、瞬く間に世界中に広がった。公共、民間を問わず、人々が自由に踊る機会を提供した。ダンスブームが巻き起こると同時に、新しいさまざまな形の社交ダンスが登場した。20世紀初頭には、バニーハグ、グリズリーベア、ターキートロットなどの「アニマルダンス」が考案され、しばしば黒人のアーティストや作曲家が生み出したラグタイムに合わせて踊られた。
リズムのアクセントをずらすシンコペーションを多用したラグタイムからフォックストロットが生まれた。スロー-スロー-クイック-クイックのステップを踏みながら、大きな歩幅で優雅にフロアを動き回るダンスだ。華やかさと軽やかさを併せ持つステップで知られるアイリーンとバーノンのカッスル夫妻が一躍有名になった。無声映画やマスコミの力もあり、カッスル夫妻は誰もが知る存在となった。ダンサーたちは2人の服装や髪形、ダンスの動きをまねるようになった。バーノン・カッスルが第1次世界大戦中に飛行機事故で悲劇的な死を遂げたとき、フォックストロットはすでに世界中のダンスフロアで定番の座を確立していた。
20世紀初頭に流行したもうひとつのダンスは、南米のアルゼンチン発祥だ。1880年代、アルゼンチンの貧しい港町で生まれたタンゴは、アフリカとヨーロッパのダンスを取り入れていた。また、この官能的なダンスは、ダンサーの距離がスキャンダラスなほど近く、見る者を興奮させ、当時の社会規範に反していた。タンゴ指導者兼歴史家のマイケル・トレナー氏は、「男性優位のアルゼンチンでは、男性2人だけで踊ることが多く、ゲイカルチャーのよりどころになっていた」と語っている。その後、タンゴはパリやロンドンに広がり、「タンゴマニア」はやがて米国にも伝わった。
1920年代、タンゴは世界中に知れ渡っていた。人気スターのルドルフ・バレンティノがスペインのダンサーであるベアトリス・ドミンゲスとタンゴを踊った1921年の映画「黙示録の四騎士」も一役買った。タンゴは、男女がエロチックなリズムで体を動かすというかつてない機会をもたらし、そのドラマがダンサーと観客の両方を魅了した。
ハリウッドは映画ファンに、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのようなプロダンサーが社交ダンスを巧みに魅惑的に踊る姿を見せた。しかし、ダンス愛好家がインスピレーションを求めたのは銀幕だけではなかった。黒人文化は米国の社交ダンスに深い影響を与え、20世紀を代表するダンスのひとつ、リンディーホップが誕生した。
この喜びに満ちたダンススタイルは、ブームとなっていたダンスマラソンから生まれた。1920〜30年代、大恐慌時代のダンサーたちは賞金や名声を得るため、数時間、さらには数日、数カ月にわたり、ダンスフロアで体を揺らし、ダンスの最長記録を目指した。ダンスの歴史を研究するキャロル・マーティン氏は「動き続けた時間が長いほど、賞金も高くなった」と記している。
1928年、ジョージ・"ショーティー"・スノーデンとパートナーのマッティ・パーネルはハーレムで68時間のダンスマラソンに参加していた。踊っている途中で互いの手が離れたのだが、これは競技のルールで違反となる。スノーデンは失敗をごまかすため、クイックステップを披露して、パーネルの手を握って引き寄せた。この革新性が観客の心をつかんだ。名付け親こそ不明だが、リンディーホップというダンスの名称は、当時は曲芸飛行で有名で、のちに大西洋単独無着陸飛行に成功したパイロットのチャールズ・リンドバーグに敬意を表したものだ。
リンディーホップはジッターバグ(ジルバ)とほぼ同義で用いられ、ほかのスイングダンスが生まれるきっかけとなった。体操、さらには曲芸を連想させるこのエネルギッシュなダンスは、白人ダンサーにも広がった。第2次世界大戦後、スイングが時代遅れになったときでも、黒人ダンサーたちはリンディーホップを何十年も守り続けた。そして、1990年代、スイングが復活を遂げ、リンディーホップも再び広く踊られた。
社交ダンスの定番であるチャチャチャはキューバ、そして、バイオリニスト兼作曲家兼バンドリーダーのエンリケ・ホリンが生み出したダンスだ。1950年代には、マンボやルンバといったキューバのダンスが米国のダンスフロアで人気を博した。ホリンは、アフリカ系カリブ人の影響を受けた4分の2拍子の昔からあるダンス音楽ダンソンを演奏していた。
ダンソンから派生した3部構成のダンスは、キューバの公式ダンスとなった。しかし、ホリンは1940年代後半の演奏で、ダンスの最後の部分に新しいリズムを加え、新しい音楽をつくり上げた。その結果、ダンサーは足を引きずりながら、エネルギッシュな3拍子のステップを踏むようになり、バンドリーダーのホリンはそれを「チャチャチャ」と呼んだ。チャチャとも呼ばれるこの動きは、音楽とダンスの両方で新たな熱狂を巻き起こした。
古いダンスの多くは人気が衰えているが、チャチャチャは競技ダンスとナイトクラブの両方で生き続けている。チャチャチャの仲間であるサルサも人気だ。19世紀後半から20世紀にかけて、多くのダンスを米国に持ち込んだ移民たちは、今もその伝統を守り続けている。社交ダンサーはこれからもずっと、ディップ、スウェイ、クイックステップを続けていくだろう。
文=ERIN BLAKEMORE/訳=米井香織(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2022年10月12日公開)
すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料
日経の記事利用サービスについて
企業での記事共有や会議資料への転載・複製、注文印刷などをご希望の方は、リンク先をご覧ください。
関連リンク
ナショナルジオグラフィックは1888年に創刊し、大自然の驚異や生き物の不思議、科学、世界各地の文化・歴史・遺跡まで1世紀以上ものあいだ、地球の素顔に迫ってきました。日本語版サイトから厳選した記事を掲載します。
トピックをフォローすると、新着情報のチェックやまとめ読みがしやすくなります。
こちらもおすすめ(自動検索)
関連キーワード
新着
注目
ビジネス
ライフスタイル
新着
注目
ビジネス
ライフスタイル
新着
注目
ビジネス
ライフスタイル
No reproduction without permission.

source

最新情報をチェックしよう!
広告
>すべての音楽情報をあなたに・・・

すべての音楽情報をあなたに・・・

インターネットで情報を探すとき、あなたはどうやって探しますか?いつも見ているページで情報を得る?検索エンジンで好きなアーティスト名を検索してでてきたものを見る?本当にそれであなたの欲しい情報は手に入れられていますか?

CTR IMG